最高裁判所第一小法廷 昭和51年(あ)1581号 決定 1978年5月31日
主文
本件上告を棄却する。
理由
(上告趣意に対する判断)
弁護人伊達秋雄、同高木一、同大野正男、同山川洋一郎、同西垣道夫の上告趣意第一点は、憲法二一条違反をいうが、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であり、同第二点は、単なる法令違反の主張であり、同第三点は、憲法二一条違反をいう点もあるが、実質はすべて単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
(職権による判断)
一国家公務員法一〇九条一二号、一〇〇条一項にいう秘密とは、非公知の事実であつて、実質的にもそれを秘密として保護するに値すると認められるものをいい(最高裁昭和四八年(あ)第二七一六号同五二年一二月一九日第二小法廷決定)、その判定は司法判断に服するものである。
原判決が認定したところによれば、本件第一〇三四号電信文案には、昭和四六年五月二八日に愛知外務大臣とマイヤー駐日米国大使との間でなされた、いわゆる沖繩返還協定に関する会談の概要が記載され、その内容は非公知の事実であるというのである。そして、条約や協定の締結を目的とする外交交渉の過程で行われる会談の具体的内容については、当事国が公開しないという国際的外交慣行が存在するのであり、これが漏示されると相手国ばかりでなく第三国の不信を招き、当該外交交渉のみならず、将来における外交交渉の効果的遂行が阻害される危険性があるものというべきであるから、本件第一〇三四号電信文案の内容は、実質的にも秘密として保護するに値するものと認められる。右電信文案中に含まれている原判示対米請求権問題の財源については、日米双方の交渉担当者において、円滑な交渉妥結をはかるため、それぞれの対内関係の考慮上秘匿することを必要としたもののようであるが、わが国においては早晩国会における政府の政治責任として討議批判されるべきであつたもので、政府が右のいわゆる密約によつて憲法秩序に抵触するとまでいえるような行動をしたものではないのであつて、違法秘密といわれるべきものではなく、この点も外交交渉の一部をなすものとして実質的に秘密として保護するに値するものである。したがつて右電信文案に違法秘密に属する事項が含まれていると主張する所論はその前提を欠き、右電信文案が国家公務員法一〇九条一二号、一〇〇条一項にいう秘密にあたるとした原判断は相当である。
二国家公務員法一一一条にいう同法一〇九条一二号、一〇〇条一項所定の行為の「そそのかし」とは、右一〇九条一二号、一〇〇条一項所定の秘密漏示行為を実行させる目的をもつて、公務員に対し、その行為を実行する決意を新に生じさせるに足りる慫慂行為をすることを意味するものと解するのが相当であるところ(最高裁昭和二七年(あ)第五七七九号同二九年四月二七日第三小法廷判決・刑集八巻四号五五五頁、同四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁、同四三年(あ)第二七八〇号同四八年四月二五日大法廷判決・刑集二七巻四号五四七頁参照)、原判決が認定したところによると、被告人は毎日新聞社東京本社編集局政治部に勤務し、外務省担当記者であつた者であるが、当時外務事務官として原判示職務を担当していた蓮見喜久子と原判示「ホテル山王」で肉体関係をもつた直後、「取材に困つている、助けると思つて安川審議官のところに来る書類を見せてくれ。君や外務省には絶対に迷惑をかけない。特に沖繩関係の秘密文書を頼む。」という趣旨の依頼をして懇願し、一応同女の受諾を得たうえ、さらに、原判示秋元政策研究所事務所において、同女に対し「五月二八日愛知外務大臣とマイヤー大使とが請求権問題で会談するので、その関係書類を持ち出してもらいたい。」旨申し向けたというのであるから、被告人の右行為は、国家公務員法一一一条、一〇九条一二号、一〇〇条一項の「そそのかし」にあたるものというべきである。
ところで、報道機関の国政に関すを報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、いわゆる国民の知る権利に奉仕するものであるから、報道の自由は、憲法二一条が保障する表現の自由のうちでも特に重要なものであり、また、このような報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材の自由もまた、憲法二一条の精神に照らし、十分尊重に値するものといわなければならない(最高裁昭和四四年(し)第六八号同年一一月二六日大法廷決定・刑集二三巻一一号一四九〇頁)。そして、報道機関の国政に関する取材行為は、国家秘密の探知という点で公務員の守秘義務と対立拮抗するものであり、時としては誘導・唆誘的性質を伴うものであるから、報道機関が取材の目的で公務員に対し秘密を漏示するようにそそのかしたからといつて、そのことだけで、直ちに当該行為の違法性が推定されるものと解するのは相当ではなく、報道機関が公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、実質的に違法性を欠き正当な業務行為というべきである。しかしながら、報道機関といえども、取材に関し他人の権利・自由を不当に侵害することのできる特権を有するものではないことはいうまでもなく、取材の手段・方法が贈賄、脅迫、強要等の一般の刑罰法令に触れる行為を伴う場合は勿論、その手段・方法が一般の刑罰法令に触れないものであつても、取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躪する等法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認することのできない態様のものである場合にも、正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びるものといわなければならない。これを本件についてみると、原判決及び記録によれば、被告人は、昭和四六年五月一八日頃、従前それほど親交のあつたわけでもなく、また愛情を寄せていたものでもない前記蓮見をはじめて誘つて一夕の酒食を共にしたうえ、かなり強引に同女と肉体関係をもち、さらに、同月二二日原判示「ホテル山王」に誘つて再び肉体関係をもつた直後に、前記のように秘密文書の持出しを依頼して懇願し、同女の一応の受諾を得、さらに、電話でその決断を促し、その後も同女との関係を継続して、同女が被告人との右関係のため、その依頼を拒み難い心理状態になつたのに乗じ、以後十数回にわたり秘密文書の持出しをさせていたもので、本件そそのかし行為もその一環としてなされたものであるところ、同年六月一七日いわゆる沖繩返還協定が締結され、もはや取材の必要がなくなり、同月二八日被告人が渡米して八月上旬帰国した後は、同女に対する態度を急変して他人行儀となり、同女との関係も立消えとなり、加えて、被告人は、本件第一〇三四号電信文案については、その情報源が外務省内部の特定の者にあることが容易に判明するようなその写を国会議員に交付していることなどが認められる。そのような被告人の一連の行為を通じてみるに、被告人は、当初から秘密文書を入手するための手段として利用する意図で右蓮見と肉体関係を持ち、同女が右関係のため被告人の依頼を拒み難い心理状態に陥つたことに乗じて秘密文書を持ち出させたが、同女を利用する必要がなくなるや、同女との右関係を消滅させその後は同女を顧みなくなつたものであつて、取材対象者である蓮見の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躪したものといわざるをえず、このような被告人の取材行為は、その手段・方法において法秩序全体の精神に照らし社会観念上、到底是認することのできない不相当なものであるから、正当な取材活動の範囲を逸脱しているものというべきである。
三以上の次第であるから、被告人の行為は、国家公務員法一一一条(一〇九条一二号、一〇〇条一項)の罪を構成するものというべきであり、原判決はその結論において正当である。
よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(岸盛一 岸上康夫 団藤重光 藤崎萬里 本山亨)
弁護人伊達秋雄、同高木一、同大野正男、同山川洋一郎、同西垣道夫の上告趣意(昭和五二年二月二八日付)
目次
序論
一、政府の秘密とは何か。不正不当な秘密を保護してよいか
1 「秘密」の実情と「秘密」を定義する視点
2 公共的関心事項についての秘密と「秘密」による世論操作の実情
3 刑罰法規における「秘密」定義の無基準、あいまいさと厳格解釈の必要性
二、新聞記者が政府の秘密を公務員から取材する行為を犯罪として処罰してよいか
1 公務秘密の取材と新聞の使命
2 報道の自由と取材の自由の不可分性
3 国公法一一一条による公務秘密取材全面禁止の効果
4 取材の実情とその正当性の限界に心理的基準を用いることの不当性
第一点 憲法二一条の解釈適用の誤り
――「そそのかし」についての解釈適用の誤り
一、そそのかしについての原判決の解釈
二、原判決のそそのかしの解釈は前後矛盾し、あいまい不明確である
1 取材の自由の憲法上の意味
2 取材の自由の限界を引く時に考慮すべき点
3 原判決の定義のあいまいな理由
4 あるべき基準
三、本件取材行為をそそのかしに当るとした判断は誤りである
1 原判決の認定
2 二人の関係
3 原判決の裏にひそむ女性従属論の誤り
4 むすび
第二点 国公法一一一条、一〇九条一二号等にいう秘密の解釈適用の誤りと審理不尽、判断遺脱
一、原判決の判示
二、原判決が本件各電信文の実質秘性をその形式や一般的内容をもとに判断したことの誤り
三、本件各電信文は違法秘密である
四、一部に違法秘密が含まれている場合と国公法一〇九条一二号等にいう秘密の解釈適用について
――原判決の解釈適用の誤りと審理不尽、判断遺脱
五、結語
第三点 西山記者の一〇三四号電信文案の入手方依頼につき、秘密の認識を欠くとはいえないとした点における、憲法二一条違反と法令の解釈適用の誤り
一、概要
二、擬似秘密の取材に確実な資料等が予め存する場合にのみ未必の故意を阻却するとした点は憲法二一条に違反する
三、擬似秘密と信ずるにつき客観的相当性を要求することは法令の解釈を誤つたものである
四、西山記者の本件第一〇三四号電信文案入手依頼につき、未必の故意ありとしたことは、法令の適用を誤つたものである
序論
原判決に対する具体的な上告理由を論述するに先立ち、本件の第一審以来の基本的な争点とこれに対する弁護人らの考え方の骨子をのべておきたい。これは上告理由の各論点の前提をなすものである。
本件の特色の第一は、本件で「秘密」とされた起訴状記載の各電信文は、沖繩返還交渉の際、対米請求権四〇〇万ドルについて日本政府が肩代りするという「カラクリ」を示す不正不当な秘密であるということである。
その第二は、報道記者の右電信文を取材したことが国公法一一一条の公務秘密漏示のそそのかし罪にあたるとして起訴された最初の事件であるということである。
この二つの特色をめぐつて、一審以来多岐にわたる法律論が展開され、弁護人と検察官の主張は烈しく対立したのであるが、その基本的な問題点は以下の二点である。
一、政府の「秘密」とは何か。不正、不当な秘密を保護してよいか。
1 「秘密」の実情と「秘密」を定義する視点
本件では、国公法一一一条の「職務上知り得た秘密」とは何かが当然に基本的に問題になる。その際最も注意すべきは、政府サイド、行政サイドから「秘密」を定義しようとすることは根本的に誤りである、ということである。
政府サイド、行政サイドからみれば、誰からも批判をうけることなく、従つて公の論議の対象にもならず、公務員が適当と判断したことを“自由”に実行しうること位、便宜なものはない。いわゆる雑音の入らない密室において、自己の権限を縦横に行使できるのは、公務員が本来的に愛好するところである。かくして、官僚は多数の秘密を欲する。現にわが国防衛庁が秘密に指定したものだけでも庁秘七二万点、防衛秘密九万点に及ぶ、国会で明らかにされたところによれば、本件当時の昭和四六年度だけで、極秘四万点、秘八万三千点余、合計一二万五千点があらたに秘密指定されている(なお、この中には防衛庁秘は含まれていない)。
わが国全官庁の行つている秘密指定は、その総数百万点を遙かにこえると推定される。まさに行政は秘密の中に埋まつているといつて差支えない状況にある。
既にマツクス・ウエーバーの説くところによれば、
「官僚的行政は、その傾向からいえば、常に公開性を排斥する行政」であり、
「『職務上の機密』という概念は、官僚制独自の発明品なのであり、この態度ほどの熱心さをもつて官僚制が擁護するものは何一つとして存在しないのである。……官僚制が議会と対立する場合、それは誤ることのない勢力本能から、自己の手段((たとえば、いわゆる「審査権」))により利害関係者から専門知識を獲得しようとする議会のあらゆる企てに対し斗争する。充分に情報を与えられておらず、それ故に無力な議会は、いうまでもなく官僚制に一そう好都合である」(マツクス・ウエーバー、浜島朗訳「権力と支配」三一六頁)。
この言葉はまさしく、わが国行政の実態と官僚制の傾向にあてはまる。
従来、秘密の定義は、政府サイド、行政サイドからのみなされてきた。そのために秘密の定義は著しく無内容漠然たるものとなり、官僚行政がもつ秘密主義に絶好の口実を与えた。そこには、国民の側からの観点は全く欠落してきたのである。
いわゆる「秘密」の問題を考えるに当つては、先ず何よりも国民側の利益、権利から解明していかなければならない。ここに最も核心をなすのが「国民の知る権利」との関係である。
シユーピーゲル事件に関する一九六六年八月五日のドイツ連邦憲法裁判所の判決は、「軍事機密保持の必要とか国家利益にとつて有害とかいう問題は、軍事的利益からだけ判断してはならない。むしろ、民主主義的原理に由来する公衆のもつ『知る権利と討論の権利』とが対置されなければならない。国防体制の本質的な弱点を暴露することは、さし当つては軍事的不利益があつたとしても、長期的には秘密を保持することよりも重要であることもある」とのべている。
国民の「知る権利」との関連を考察することなき「秘密」論は「行政の便宜」のために国民の基本的権利を犠牲にするものである。
2 公共的関心事項についての秘密と「秘密」による世論操作の実情
われわれは、「公務上の秘密」を全く否定するものではない。たとえば国民のプライバシーに属するような事項や、国立大学の入学試験問題とか、競争入札における入札価格などのように制度そのものが公開の討論に適しない事項について秘密とされるのは正当であるし、保護価値があろう。
しかしながら、およそ政治・外交などの公共的関心事項は全く性質を異にする。少くも自由社会にあつては、これらは国民がそれを知り、討論して決すべき事柄である。これらの公共的関心事項について、政府に大巾な秘密指定権を認めることは、同時に政府による一方的な世論操作を認めることであり、国民及び議会の判断を誤らせる最大の原因となる。公共の関心事項についての秘密は、常にこのような重大な危険を伴なうのである。ところが従来は、秘密を指定する側にだけ立つて、いわば支配する側から、支配する必要と便宜を検討し、「秘密」を判断してきた。秘密のメリツトのみが判断の対象となり、秘密に内在する重大な社会的デイメリツトが看過されてきた。それなる故に、政府の違法又は不当な秘密に対してまで、著しく寛容な見解がとられてきた。後に詳述するように、原判決もまたその例に洩れなかつたのである。
公共の関心事項について国民の有する「知る権利」を軽視し、秘密を保護することが、どんなに国民に重大な災禍をもたらしたかは不幸にしてわが国の最近の歴史が示している。
昭和六年九月一九日東京日日新聞は、朝刊の第一面で次の如く報道した。
「一八日午後一〇時半、北大営の西北において暴戻な支那兵が満鉄線を爆破し、わが守備兵を襲撃したので、わが守備隊は時を移さずこれに応戦し、大砲をもつて北大営の支那兵を襲撃し北大営の一部を占領した」
いうまでもなく、満洲事変の第一報である。これは関東軍が発表した記事であるが、真実は全く違つていた。満洲事変の発端となつた柳条講の爆破は関東軍の指令により奉天独立守備隊河本中尉とその部下が行なつたものである。しかしこのことは極秘にされ、わが国民が知つたのは、敗戦後の東京裁判によつてである。当時東京大学教授横田喜三郎はこの爆破に疑問をもち、東京帝国大学新聞にその旨の見解を掲載したが、非国民呼ばわりをされるにとどまつた。圧倒的多数の国民は、関東軍の公表した虚偽の情報を信じ、秘匿された真実を知らなかつたために、中国との戦争を支持したのである。
公共の関心事項中、政府に不利な事柄が故意に秘匿され、政府による世論操作が行なわれることは決して過去の事象ではなく、まの全体主義国家にのみ存在していることではない。
米国のもつとも著名なジヤーナリストであるジエームス・レストン(ニユーヨーク・タイムス副社長)は次のように書いている。
「いくら世の中が今のようになつたとは言え、犠牲を払うのは結局国民なのだから、政府は相談せずに危険を冒すべきではない。そればかりでなく、官僚は、とつくの昔に敵方が周知している重大事件を、国民に黙つて平気でいることがある。たとえば、一九六六年、ジヨンソン大統領の率いる政府は国民に対して、北爆を再開したのは、爆撃休止期間中に、北側が南にある兵力を増強したからだと説明したが、米軍自身、休止期間に北が南に注ぎ込んだ以上の増兵を行なつた事実は伏せられた。」(レストン「新聞と政治の対決」四〇頁)。
本件の電信文が、それに明白に記述されているように、日本政府の「アピアランス」を保つものであり、しかも国会での説明並びに条約の明文と異り、対米請求権四〇〇万ドルを実はわが国政府が肩代りするための交渉経過を記述するものである以上、これを刑罰をもつて保護することは、かかる政府の不法を司法が肯認することとなる。行政府の不法を認め、かえつてこの不法を暴いた記者を処罰することは、最も深いところにおいて法に対する信頼を傷つけるものである。
3 刑罰法規における「秘密」定義の無規準、あいまいさと厳格解釈の必要性
秘密の保護が無限定に拡大する危険は、国公法一一一条、一〇九条一二号、一〇〇条の構成要件としての「秘密」が明白性を欠き、無規準であることによつて一層増大する。
周知のように、右の「秘密」の解釈としては指定秘説と実質秘説があり、後者が通説判例となつているが、これとて現実に定義しようとすれば、殆んど無内容に近く、まして原審で検察官が主張したように、秘密指定に実質秘としての推定力を認めるというのであれば、両説は実質的には同一となりその区別を認める実益が失われることになる。
そしてこのように、秘密について無内容或いは漠然たる定義をする限り、政府が秘匿したいと思う事項は、すべて国公法の右各法規にいう「秘密」に該当し、刑罰上保護されることとなる。
しかし、自由主義国家の法制度をみても、このように広汎かつ漠然と秘密を保護している国は殆んどない。
合衆国において公務上の秘密漏洩が処罰されるのは「国防に関する情報」に関してのみであり、このような情報を入手するために一定の軍事施設に立入つたり、入手或いは伝達した場合には、それが「合衆国に損害をもたらすため、あるいは外国の利益となるように用いられるべきことを意図し、又はそう信じて」なされた場合に限り、主体の誰たるを問わず処罰されることとなつている。
西ドイツにおいては、刑法九三条が国家機密の漏洩を処罰していたが、一九六八年六月の改正において「外国から秘密にしておかなければならない秘密」と限定され、また同法二項は「自由で民主的な基本秩序のような憲法の本質的基本価値に反する事実」は違法秘密として処罰の対象にならないと定めている。
また刑法三五三条b及びcは官吏による職務上の秘密の漏洩やその伝達、公表を処罰しているが、その秘密は漏洩によつて「重大な公的利益をおびやかしたもの」に限定され、更に処罰は「重大な公的利益の侵害」を要件とし、すべて具体的危険犯であるとされている。
なおドイツ共和国憲法裁判所は一九五八年一月一五日の判決で次のように判示している。
「表現の自由と雖も一般的制定法によつて制限されうる。しかし一般的制定法は常に表現の自由の観点から更に見直さなければならない。この原則は、そのまま新聞の自由にもあてはまる。この原則はここにおいて特別の重要な役割を果すことになる。新聞における発表は原則として公の意見形成に資するために為される。従つてたとえその発表は他の法域に抵触する場合であつても許されるべきものであるとの推定を自らのうち内包している。」
フランスにおいては、一般的行政秘密は刑罰法規上、保護されていない。それはただ公務員に対する行政上の懲戒処分に委ねられているに過ぎない。刑罰をもつて保護されているのは、国防上の秘密と私人の秘密のみである。
行政上の秘密を広く刑事制裁によつて保護しているのは、僅かに英国の「官史秘密法」のみであるが、これとて報道の自由が問題になつたサンデー・テレグラフのビアフラ報告書事件では、新聞記者が公務秘密を取材した場合には適用されないとして無罪の評決がされている(なお各国の秘密保護法制と判例については第一審における弁護人冒頭陳述書三七頁以下、同弁論要旨六九頁以下に詳述した通りであり、特に英米法については一審証人伊藤正己教授、独法については同石村善治教授、仏法については同古川経夫教授がそれぞれ証言している)。
このように、自由主義国家の刑罰法制が「秘密」を限定的に定義し、又は法規を限定的に適用しているのは、そうでない限り秘密保護法規が国民の基本的人権就中その「知る権利」を侵害するおそれがあるからである。
この意味において、国公法一一一条が公務員の職業的規律の維持という範囲を超えて公務員にあらざる一般市民に刑罰を加えるように適用される以上は、そこにいう「公務上の秘密」は少くも次の要件をそなえている必要があると考える(第一審弁論要旨五三頁以下)。
(イ) 秘密が漏洩されることによつて社会が蒙る危険が重大であり、具体的かつ直接的であること。
(ロ) 秘密の保護価値性の判断は、行政の便宜という観点のみから検討すべきでなく、国民の「知る権利」の例外をなすものであるか否かを検討すべきであること。
(ハ) 不正不当な秘密は、その漏洩が、重大かつ明白な直接的危険をもたらす場合であつても刑罰による保護の対象とはならないこと。
これに対し検察官は、「政府がその機能を果すために、秘密の保持という手段が必要であり、政府はこの手段によつて、国民に対する義務を一層良く果たすことができるということは一般に承認されているところである」(原審検察官弁論要旨一丁裏)として、行政の便宜のために広義かつ包括的に刑罰法規上の「秘密」の観念を認めようとしている。このような考え方こそ、前述のように自由社会の理念と現実の経過に徴し、われわれが最も強く批判するところであり、本件訴訟における一貫した中心的争点であつたのである。
二、新聞記者が政府の秘密を公務員から取材する行為を犯罪として処罰してよいか。
1 公務秘密の取材と新聞の使命
本件電信文の写しの取得は、新聞記者の取材活動としてなされた。それは外国の利益をはかるためのスパイ行為でもなければ、特定の団体又は個人の利益のために行なわれたものでもない。そして取材行為は、常に多かれ少かれニユース・ソースに対するニユース提供の働きかけ、法的にいえば「そそのかし」を伴う。もし国公法一一一条、一〇九条一二号をそのまま新聞記者の公務秘密取材行為に適用するなら、新聞記者は常に処罰される危険をおかすか、或いは、公務秘密の取材をやめるか、何れかの選択を迫られることとなる。それこそ正しく連邦最高裁判所が、「表現の自由」の問題となる事案について重要な判断基準としている「威迫的効果(Chilling Effect」である。
一体、国公法一一一条を新聞記者の取材に適用しこれを禁止したらどういうことになるであろうか。公務の秘密の取材は、公務員に対して漏示を働きかける以外には通常ありえないから、これを刑事罰による威迫の下に禁止されたならば、新聞は公務の秘密を――たとえそれがどのように公共的関心事であろうとも――独自に取材し報道しえない。すべてそれは政府による公式の発表か、或いはせいぜい政府高官が意識的に行なうリークに頼る他はない。それでは新聞は、自律性を失ない政府の報道機関と同じになるであろう。全体主義国家の新聞ならいざしらず、それは自由社会における新聞の本質的使命を喪失したことになる。
自由主義的民主制社会は、全体主義社会と異なつて政府の無謬性を信じない。そこでは政府は、個人又は民衆と同様或いはそれ以上に誤りをおかす可能性があることを前提としている。しかも権力をもつ者が一たん誤つた場合の影響は遙かに大きいという歴史的経験を前提にしている。政府は国民から多くの批判をうけることによつて誤りを少なくすることができるというのが民主主義の基本的な考え方である。そして言論、出版の自由は他の基本的権利に優越する憲法上の地位をもつといわれるのも、それが単に個人の自由であるのみでなく、治者を批判することによつて被治者が自ら支配機構に参加するという「自治政体Self-governme-nt)」の理念の根幹をなしているからである(Meiklejohn:Political Freebom)。
そして国民が政府を批判し、論議するためには、できる限り正確なニユースを知ることが必要である。しかし国民一人一人は、そのような機関をもつているわけではなく、時間も労力もない。新聞は、まさしく国民のために、情報を伝達し、国民に公共の関心事についての論議の場を提供するための社会的機関である。それは政府のためでなく、また特定の人や団体の利益のために行なわれるものではなく、大多数の人々の知る権利と論議の自由のために機能すべきものである。再びレストンの言葉を引用するならば、
「世界の運命を左右する実力をもつ政府特に大統領のためになるのは、イエスマンの新聞ではなく、その反対、すなわち、砲列の如くかまびすしく、しかも正確に発射される批判と事実の活発な砲撃なのだ。これは新聞が地方的でなくなるということであり、国家的あるいは愛国的でなくなるということさえ意味する。」(レストン前掲書ⅱ頁)。
それにもかかわらず、新聞に現実に掲載される記事は、政府・行政機関より提供されたニユースが圧倒的に多い。これは現在の政府の機構と権限が極めて大きく、ニユースを独占していることから来る不可避的傾向である。それ故に、もし新聞が、独自の取材への努力を怠るならば、好むと好まざるとにかかわらず、全体主義国家における新聞と同様の機能をはたす危険を常にもつているのである。新聞は、政府の提供するニユースのみならず、政府の提供したがらないニユースを取材し報道しない限り、その使命をはたすことはできない。
さればこそ、先のニユーヨーク・タイムズ事件の連邦最高裁判決において、ブラツク判事は次のようにのべているのである。
「報道は支配する者ではなく、支配される者に奉仕すべきものである。政府の報道に対する検閲の権利は、報道がむしろ政府を批判できる自由を永遠に保持できるよう、廃棄された。報道は、政府の秘密をあばき、人民にこれを知らせることができるように保護された。自由にして制約されない報道のみが、よく政府の欺まんをあばくことができる。そして政府のいかなる機関も人民を欺き、彼らを遠い異境に送り、他国の熱病および他国の銃火によつて死に至らしめることのないようにこれを阻止する義務は、自由な報道の責任中至高のものである。」
このように、政府の秘密に対する新聞の挑戦は、報道の権利であるのみならず、その義務なのである。そしてこの新聞の機能は、単に新聞の特権として理解されるべきものではなく、それこそが民主主義社会の根幹なのである。
もし、新聞記者が公務員に対し秘密を知らせてくれるようそそのかすことが刑罰によつて禁止されるなら、それは新聞は政府の機関紙たれというに等しく、かかる法の解釈適用は、自由社会の根本原則たる「言論出版の自由」そのものを否定するものである。
2 報道の自由と取材の自由の不可分性
右にのべてきたように、報道の自由が自由社会と「自治政体」の根幹をなすものであることは今日一般に認められているところである。しかるに検察官は一審以来「取材自由は報道そのものではなく、報道のために準備行為に過ぎないから……直ちに憲法二一条の保障のもとにあるとはいえない」(一審論告一八頁)とし、石井記者の証言拒絶事件の最高裁大法廷判決(昭和二七年八月六日最刑集六巻八号九七四頁)を引用する。
しかしながら、報道の自由と取材の自由は不可分の関係にある。そもそも国民の「知る権利」といつても、その実現は前述のように容易ではない。社会機構や統治機構が現代のように複雑化し、国民の殆んどが職場の労働や家事に専従するような情況の下では、公共の関心事と個人の知覚能力との間には無限に大きな距離ができ上つている。その間のギヤツプを埋めるのが報道機関であり、事実、個々の国民の公共的関心事については殆んどそのすべてを報道機関の「報道する事実」に依存しているのである。のみならず、報道機関による事実の報道、特に政府秘密に関する情報の伝達は、独自の調査能力が著しく制限されている国会の現状の下で、国政の審議の上で極めて有益な役割を果たしているのであつて、このことは、原審証人河野洋平議員、同上田哲議員がその政治的立場の違いにもかかわらず共通して証言しているところである。
まさに「事実の報道」こそは新聞の生命である。そしてこの「事実の報道」は「取材」、それも新聞の「独自の取材」なくしては不可能である。どんなに報道の自由を尊重するといつても、報道の内容をつくり出す取材の自由が存しなければ、それは画餅に等しい。
博多駅取材フイルム提出事件の最高裁大法廷決定(最高裁大法廷昭和四四年一一月二六日刑集二三巻一一号一四九〇頁)が、
「報道機関の報道は民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。したがつて、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は表現の自由を規定した憲法二一条の保障のもとにあることはいうまでもない。また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法二一条の精神に照らし十分尊重に値するものといわなければならない」
とのべているのもこの趣旨に他ならない(なお石井記者証言拒否事件判決の理由は、右博多駅フイルム提出事件の全員一致の決定により実質的に変更されたとみるべきである)。
3 国公法一一一条による公務秘密取材全面禁止の効果
たしかに、取材の自由といつても、被取材者に情報提供の義務を負わせるものではないが、これは表現の自由一般に共通のことであつて、取材の自由に固有なものではない。例えば出版する自由は、誰かに出版物を読ませる義務を負わせるものでないことは自明である。取材の自由は、取材に応ずる義務を相手方に負わせるものではないが、そうであるからといつて逆に取材を禁じてもよいということにはならない。知る権利特に取材の法律的意義については第一審で伊藤正己教授が証言されたところであるが、「取材の自由」が国家から「自由」である所以は、これを法律によつて一般的に禁止されたり、まして刑罰を科せられたりすることがないという点に最も本質的な意義がある。
もとより、われわれは取材であれば何をしてもよいというような主張をしているのではなく、詐欺、脅迫など刑法が本来的に犯罪としているような行為を是認しているわけではない。しかし取材にとつて本質的でない行為の規制と、取材に不可欠な行為の規制とでは「取材の自由」の制約として同一に論ずることはできない。検察官は取材の手段・方法が窃盗や脅迫等刑法所定の構成要件に該当すれば処罰されるのと同様、それが国公法一一一条の構成要件に該当すれば、原則として違法性も阻却されず直ちに犯罪として処罰されるべきであると主張してきた(一審論告二三頁。原審検察官控訴趣意補充書三丁裏。但し検察官は、控訴趣意書では、「取材活動に伴う刑罰法規の構成要件該当行為については、取材の手段、方法が取材活動としての相当性の限界を逸脱しない限度において、刑法三五条による正当業務行為として違法性が阻却される」(同一三〇頁)としており、その見解は矛盾している)。
しかし、窃盗や脅迫などはそもそも取材行為といえるかどうかも疑問であり、少くとも取材に不可欠な行為ではない。これに対し国公法一一一条は公務員にその職務上知りえた秘密をもらすよう「そそのかす」行為を処罰するのであるから、これに何らの限定も加えないで適用すれば、報道記者は公務員に対して秘密であるかもしれない事項を探知することができなくなる。そして公務の秘密は、公務員しか知らないのが通常であるから、公務員から取材する以外に方法はない。他に選択しうる代替的方法はない。とすれば国公法一一一条を検察官の主張する如く記者に適用すれば、公務の秘密に関する全面的かつ包括的禁止を意味することとなる。これは取材の方法の制限ではなく取材そのものの禁止と同様である。
かくて公務の秘密に対する取材は、常に刑罰威嚇を覚悟しなければならない。最高裁大法廷の前記決定のいう「憲法上十分の尊重」を必要とする筈の自由の行使がこのような刑事罰による威嚇をうけるということは、そのような法規が違憲であるからか、又はその解釈適用が誤つているからである。原判決もこの点について次のようにのべている。
「報道機関の取材の自由が、消極的自由であるとはいうものの、公務の秘密につき公務員から取材するため、公務員に秘密の漏示をさせようとする取材活動を、取材活動として社会通念上許容される範囲を顧慮することなく、すべて一律に、国公法一〇九条一二号の行為をそそのかしたもの、として処罰の対象となるものと同法一一一条を解釈するならば、同条は憲法二一条に反し違憲無効のものとなることを免れない。
右の判示は正当である。
4 取材の実情とその正当性の限界に心理的基準を用いることの不当性。
更に検察官は、取材の方法を限定し、「刑法所定の犯罪を構成する場合は勿論、……相手方の弱点ないし困惑に乗じ、偽計を用いるなど相手方の意思決定に不当な心理的影響を与えるような方法を用いた場合」はすべて「そそのかし」に当りかつ違法性を阻却しない旨主張してきた(一審論告二三頁、原審控訴趣意補充書二丁裏)。
このような解釈がいかに取材の実情を無視するものであるかは、後の論点で具体的に明らかにするが、ここではそもそも取材をその目的から切り離して外形だけから論ずることの不当性を指摘しておきたい。
稀に積極的に情報を提供されることはあるが、取材の多くは、語りたがらない人々から、情報をうることなのである。ましてわが国の公務員の実情からすれば、ただ質問したり単純に依頼する程度で秘密について語る者は殆んどいない。従つて報道する価値のある情報を公務員から入手するために記者は惨怛たる苦心をするのである。色々な個人的関係をも利用して、熱心に時として執拗にあの手この手で問い正し、情報源からニユースの提供をうけるのが実情なのである。そのためには心理的かけ引きも必要なことがある。それは時として捜査に当る警察官や検察官と同様であり、時としては探偵の使う手口とすら似ていることがある。取材というのは、それだけを切離してみれば、決して美しいことではない。話したがらない被疑者をあの手この手で自白させる捜査官の尋問も、それ自体としてみれば、非人間的と評価することが可能であるのと同様である。何れにしてもそれ自体は倫理的でなく何がしかの汚さを伴うものである。とても清く、正しく、美しくというような修身の教科書を体現しうる行為ではない。
しかし、取材は報道と不可欠であり、熱心かつ執拗な取材なくしては、国民に有益な情報を伝達することができない。平板に公務員に尋ねたり依頼したりする程度のいわゆる「玄関取材」では、有効な報道材料を入手できないのが実情である以上、取材方法の外形だけを切り離し「不当な心理的影響」というような評価をしこれに刑罰を科することは、結局は国民にとつて価値のある報道を禁止することに通ずるのである。
美しい報道は必ずしも美しくない取材によつてのみ支えられているのである。報道の自由を礼賛しつつ、取材に内在するある種の汚なさに眉をしかめるのは、「バラの花は美しいが、バラの根は汚い」という事実に目をおおうものである。花だけを愛して、これを根から切りとれば、花は枯れてしまうのである。
取材についての広汎な自由がなければ、報道の自由は現実に成立しない。あいまいな、無規準な、外形的というより心理的な規準によつて取材を制限・禁止することは報道の自由にとつて極めて危険である。本件第一審判決が次のとおり判示していることは極めて正当である。
「取材活動の一環として行なわれた行為に刑罰的制裁を加えることは、報道記者全体の将来の(不可罰的な、しかし当該行為と類似している)取材活動が萎縮するという効果を伴いがちであり、したがつて将来の取材活動によつて支えられる国民的利益もまた損なわれるに至るであろう」
われわれは、最高裁判所が以上の基本的論点に充分な省察を加えられた上で、以上の各論点を検討されることを願うものである。
第一点 憲法二一条の解釈適用の誤り
原判決の「そそのかし」の定義は前後矛盾してあいまい不明確であり、本件取材行為を「そそのかし」に該当するとする点において国公法一一一条の解釈適用を誤り、ひいては憲法二一条の解釈・適用を誤つた違法があるものである。
一、「そそのかし」についての原判決の解釈
原判決は、
1 国公法一一一条の「そそのかし」とは、同法一〇九条一二号、一〇〇条一項所定の秘密漏示行為をさせる目的をもつて、公務員に対し右行為を実行させる決意を新たに生じさせてその実行に出る高度の蓋然性ある手段方法を伴い、又は自ら加えた影響力によりそのような蓋然性の高度な状況になつているのを利用してなされるしようよう行為をさすものと限定解釈すべきであるとし、
2 報道機関の取材活動として、公務員に対し秘密の漏示をしようようする行為につき、右の概念を当てはめて見ると、取材の対象となる公務員が秘密漏示行為に出るかどうかについて、自由な意思決定をすることを不可能とする程度の手段方法を伴つてなされる秘密漏示行為のしようよう行為及び取材者の加えた影響力により、取材の対象となる公務員が、秘密漏示行為に出るかどうかについて、自由な意思決定をすることが不可能な状態となつていることを認識し、その状態を利用してなされる秘密漏示行為のしようよう行為が、これに該当するとする。
3 従つて、この定義は検察官がいう「相手方の意思決定に不当な心理的影響を与えるような方法を用いる場合」よりも限定的なものであつて、弁護人のいう「取材対象者の自由意思を否定する取材」の類型の秘密漏示のしようよう行為だけ、換言すれば、その手段・方法・態様において極度に相当性を欠如するもののみが、このそそのかし罪の構成要件に当るから、このような行為については、違法性阻却の余地は格段の個別的事情が加わらない限り存在しないとする。
4 そして、本件においては、昭和四六年五月二六日ころ西山記者が愛知・マイヤー会談関係文書を頼むという指示を与えた時点、並びに愛知・ロジヤーズ会談関係文書を頼むという指示を与えた時点において、同記者が与えた影響力により、蓮見事務官が必ず指示に応じ秘密文書を西山記者の手中にとどけるという状況となり、同事務官において、指示を受けるたびに改めて、その指示に従うかどうかについて意思決定をする心のゆとりが全く存在していない状態になつており、西山記者において、同事務官がこのような状態になつていることを知りながら、各秘密文書の漏示を同事務官にしようようしたものと優に推認でき、これは原判決の示した「そそのかし」の意義についての限定解釈の下でそそのかし罪の「そそのかし」に該当するものと認められる、としているのである。
二、原判決のそそのかしの解釈はあいまい、不明確である。
しかしながら、原判決が、国公法一一一条のそそのかしについて、憲法二一条及び三一条の観点から加えたという右限定解釈は前後矛盾し、その為明確でなく、かつ広きにすぎ、西山記者の本件取材行為が、これに該当するとする点において、憲法二一条違反の責を免がれない。その理由は以下の通りである。
1 取材の自由の憲法上の意味
そもそも取材の自由が憲法二一条の保障下にあることは既に昭和四四年一一月二六日最高裁大法廷決定がこれを明らかにしているところである。それは事実の報道の自由が憲法二一条の保障をうけることの当然の帰結といえよう。いかに報道の自由が憲法の保障を受けるといつてみても、報道すべき内容、素材を収集する自由、即ち取材の自由が十分の保護を受けない限り、報道の自由は全く空疎なものとなつてしまうからである。この意味で報道の自由は取材の自由の保障があつて始めて意味を持つもの、いわば取材の自由あつての報道の自由であることを、論議の出発点として銘記しなければならないのである。
本件における問題点は、右の点を当然の前提にしつつ、国公法一一一条の関係において、取材の自由の範囲、或いは限界をどこに引くかにある。取材の自由の範囲、限界を考える場合に重要なことは、現下の我国の代議制民主主義体制の下でこの取材を広く認めることが極めて強く要請されるということである。原審における証人河野洋平、同上田哲は、与野党の立場の如何にかかわらず、いかに国会が行政府から外交・内政を問わず、国政にかかわる情報を得ようとする点において無力であるか、逆に行政府がいかに国会に対して秘密主義的態度をとつているか、を詳しく証言した。
これらの証言は議会により行政府のコントロールがいかに有名無実の建前だけのものになつているか、国会の審議を通じて、国民が国政について十分に知らされるということがいかに期待しがたいことであるかを明らかにした。行政府が国政に関する情報を独占して秘密扱いし、これを国会ですら十分チエツクできない時、その濫用の危険は極めて大である。
このような情況の下で、自由で独立なプレスが、政府の情報の独占を破つて、これを国民に知らする必要は極めて大きいのである。プレスのこのような働らきがあつて国民は国政についての情報に十分接することができ主権者として国政の監視とチエツクを行い、権力の濫用を批判し矯正する機会を得ることができるからである。かくして国民に国政についての情報をできるだけ多く、正確に伝えることはプレスの義務となり、民主政治が健全に機能する為に重要不可欠な役割を果すことになるのである。近時報道機関は国政の中で第四権たる地位を占めるなどといわれるのは将にこのような報道機関の義務と役割の大きさを象徴的に述べたものなのである。プレスがこのような義務と役割を果たす上で、取材の自由ができる限り広く認められるべきことは明らかである。
取材の自由の法律上の限界を考える際にはこのようなプレスの義務と役割を損わないよう、更にプレスが右のような義務と役割を十分果しうるようなものである必要が出てくるのである。
2 取材の自由の限界を引く時に考慮すべき点
以上の点を前提に、取材の自由の基準を考えるにあたつて、これが憲法上の自由にかかわる基準であることよりして更に、いくつかの考慮がなされなければならない。
その第一は、取材行為は、取材対象事項とその性質、相手、時、所等に応じて極めて多様であるから、このような多様な事実行為を律する基準は一義的に明確なものでなければならないということである。この基準があいまいなものであれば、取材にあたる記者はどこまでが許され、どこからが処罰されるのかを常に考え、迷うことになり、この不安が常に記者をして安全サイドに立たしめることとなり、活発な取材が差し控えられることにつながるのである。あいまい不明確な基準はまさに威迫的効果(チリング・イフエクト)を有するのである。
第二は、国公法一一一条にかかわる公務員からの取材は法律上守秘義務を負う者から秘密指定された情報を得ようとするものであるから、もともと極めて困難なものであり、必然的に説得や依頼による働らきかけ、心理的影響力の行使を必要とすることである。更に記者は捜査官とちがつて強制権を持つている訳でもない。強制権もなき取材記者がなしうるのは、相手の心に強く働らきかける説得、即心理的影響力の行使しかないのである。公務員からの取材に際して、心理的影響を全く与えずに秘密を入手するなどということは、公務員が内部告発者的態度をとつて自ら積極的に秘密を記者に漏らすというような我国ではごく例外的な場合にしか起らないのであり、内部告発者の場合ですら、記者の側からの働らきかけが全くないということは考えられないのである。従つて、取材の自由をきびしく考えて公務員に対する働らきかけを制約すると公務員からの情報の入手はほとんど不可能となつてしまうのである。
第三は、取材の自由についての基準は現に行なわれている取材を大きく制限するようなものであつてはならない、ということである。いずれも豊富な取材経験を有する原審証人氏家斉一郎(読売新聞広告局長)、同松岡英夫(毎日新聞編集局顧問)、同内田健三(共同通信論説委員長)らの証言によれば、新聞記者は公務員からの取材にあたつて、検察官が述べるが如く公務員に面接して質問したり、単純に秘密情報の提供を依頼するというようなことではほとんど知りたいことを知りえないので、ありとあらゆる関係を使つて、硬軟強弱さまざまな依頼の方法と取材の方法を用いるというのである。そして、このような取材行為があつて始めて毎日の新聞紙上における数々の外交、内政上の指定秘密の報道が可能となつているのである。しかし、このような取材方法に対して国家公務員法一一一条のそそのかし罪が発動された例は国公法制定以来本件にいたるまで皆無であり、このことは秘密取材の現実が法の下に肯認されて来た。あるいは少くとも法律上否定的評価をされなかつたということを示していると考えられるのであり、取材の自由を画するにあたつては、この点は十分に考慮されねばならないのである。
第四には、第一の明確性の要求とも関連して、守るべき自由を真に有効に保護しようとするならば、この基準は若干の行きすぎや濫用をも保護するようなものでなければならないという極めて現実的な見方をする必要があるということである。この考え方は公務員に対する批判の自由と名誉毀損の関係について合衆国連邦最高裁がニユーヨーク・タイムズ社対サリバヴアン事件において打ちたてた憲法ルールの底を流れる考え方である。即ち、この事件で、連邦最高裁は、公務員の公務に関してなされた言論は、批判者がその内容が虚偽であることを知つていたか、或いはそれが虚偽であるか否かを全く無視する態度であつたということを原告側が立証しない限り、名誉毀損とはならない、として、従来の真実性の立証を被告に負わせる抗弁を一八〇度転換して原告の挙証事項としたものである。これにより公務員の名誉又はプライバシーは言論の自由の前には大巾な譲歩を強いられることとなつたのであるが、その判決理由の中で連邦最高裁は、公けの関心事についての自由な討論と批判を確保する必要を強く説き、「……(被告が)挙証責任を負う『真実性』の抗弁を許すことは、虚偽の言論のみが抑制されるということではない。そのようなルールのもとでは、公務員の行為についての批判を行う人が、仮にその批判が真実であるとしても、それが法廷で真実であると立証されうるかどうかについて疑いを持ち、またそれに要する費用を恐れて、批判をさしひかえることになるかもしれない。彼等は違法とされる領域からはるかに遠いステートメントをのみなすようになりかねない。このルールはかくして批判をする活力を抑え、公の議論の多様性を制限することになる。」と述べている。ここで、最高裁の考えたことは、表現の自由が息づくスベースを持つ為には保護すべき言論を余りに厳格に解すべきでなく、一定の余裕が必要なのであり、真実保護すべきものを保護する為にはその周辺に一定の安全地帯を設ける必要がある。更に比喩的にいえば、守るべき重要な言論を保護する為には言論を過剰な位に保護しなければならないとの考えである。この考え方はその後現在にいたるまで連邦最高裁の数多くの判例にひきつがれ、発展をしているのであるが、既に昭和四九年五月一四日東京地裁決定(日本共産党対サンケイ新聞社事件)にもその影響がみられるのである。このような考え方は報道・取材の自由と政府の秘密の対立が問題となる本件の如き場合にはより強く適用さるべきであろう。ニユーヨーク・タイムズ事件及びその後の一連の判決は、片や報道の自由、他方で公務員及びパブリツク・フイギユアの名誉・人権の対立が問題となつたものであるが、本件は報道・取材の自由と政府の秘密保持が対立したものである。前者の場合は報道の自由も公務員やパブリツク・フイギユアの人権もいずれも合衆国憲法の保護下にあることは明らかであり、かつ、いずれも民主主義政治体制の根幹にある基本価値である。しかし本件の場合は、報道・取材の自由は憲法上保護を受けるのに反し、行政府の秘密については、憲法上何らの保障規定もない。むしろ、行政府の秘密は国政についての情報の国民への伝播を阻害し、行政の誤りや権力の濫用を永続・助長させる危険があり、基本的にはダグラス判事がいうように反民主主義的であり、ごく例外的にその存在を認めるにすぎないものである。民主主義社会の原則はあくまで報道・取材の自由であり、行政府の秘密はあくまで従たる例外的地位を占めるにすぎない。従つて本件においては言論の自由を優先する前記のニユーヨーク・タイムズ事件判決の考え方はより一層強く妥当するものといえるのである。
3 原判決の定義のあいまいな理由原判決も取材の自由につき一応、
「報道の範囲は、取材の範囲より広いことはありえないのであり、法律で、取材の自由を無制限に制約することが許されるとすると、報道の自由に対し、憲法二一条の保護があるといつてみても、その自由は、有名無実のものとなり、新聞などの報道を通して、国民が、国政についての多くの情報に接し、国民の信託によるものである国政の運営に関し、その是非を判断し、議院内閣制をとる憲法機構の下で、国会議員の選挙などを通して、その判断を国政の運営に反映させる国民の能力が、実質的に損なわれるに至るおそれなしとしないのであるから、国家が、報道機関の取材活動を無制限に制約することが許されないという意味での取材の自由というものもまた、憲法二一条により保護される自由の範疇に属するものである。」
「報道機関の取材の自由が、消極的自由であるとはいうものの、公務の秘密につき公務員から取材するため、公務員に秘密の漏示をさせようとする取材活動を、取材活動として社会通念上許容される範囲を顧慮することなく、すべて一律に、国公法一〇九条一二号の行為をそそのかしたとして処罰の対象となるものと同法一一一条を解釈するならば、同条は、憲法二一条に反し、違憲無効のものとなることを免れない。」
とし、取材の自由に対する憲法上の保障を認めた上で、国公法一一一条の「そそのかし」を限定する必要があるとしている。
しかし、1、2、に述べたところに照らしてみると、原判決の「そそのかし」の限定解釈は成功していない。
即ち、原判決は前述のとおり、一方で取材の対象となる公務員が、秘密漏示行為に出るかどうかについて、自由な意思決定をすることを不可能とする程度の手段方法を伴つてなされるしようよう行為及び取材者の加えた影響により、取材の対象となる公務員が、秘密漏示行為に出るかどうかについて、自由な意思決定をすることが不可能な状態になつていることを認識し、その状態を利用してなされるしようよう行為をさす、とし、これに該当するのは、弁護人のいう「取材対象者の自由意思を否定する取材」のみである、としながら、他方で、「極度に相当性を欠如する行為のみが、右に該当する」とも述べ、具体的には本件で蓮見事務官が被告人のしようようを受けて、その指示に従うかどうかについて、「意思決定をする心のゆとりが全く存在しない状態」になつており、これを知つて被告人がしようようした点が右にいうそそのかしに当るともいうのである。
しかしながら、一般的には「意思決定をする心のゆとりがない状態にあることを知つてしようようすることが」「極度に相当性を欠如する手段・方法・態様」と同じではないし、まして「自由な意思決定をすることが不可能となつている状態での取材」あるいは「取材対象者の自由意思を否定するような取材」と同じではないことは明らかである。
「意思決定をする心のゆとりが存在していない状態」とは極めて、あいまいでかつ広い定義である。その意味する所は「自由な意思決定が不可能となつている状態」よりはるかに広いのである。人は仕事が多忙である場合、急いでいる場合、あるいは悲しさや苦しみに打ちひしがれている場合、いずれの場合にも意思決定をする心のゆとりがない状態にあるともいえるからである。
又、「極度に相当性を欠如する行為」というのも、それ自体価値評価の入つたあいまいな表限であるが、これは、相手の意思の自由には必ずしも関係しないものである。それは相手に対する影響を考えない取材行為自体の評価である。従つて、それは「自由な意思決定をすることが不可能となつている状態でのしようよう」、あるいは「取材対象者の自由意思を否定するような取材」と同じではないのである。
以上のように原判決の定義は、その意味が同一でないばかりか、むしろそごする表現をいくつも用いているが故にそれ自体矛盾し明確・一義的な限定解釈とはなつていないのである。
このことは、次の点からも明らかである。即ち、原審証人氏家斉一郎、同松岡英夫、同内田健三等の証言から明らかなように、新聞記者は常日頃さまざまなつてをたどつて、公務員と親しい関係をつちかい、ある時は信頼関係に立ち、ある時は強引に頼みこみ、いずれもノーといい難い状況で依頼して秘密の情報の提供を求めるというのである。自らが信頼する、親しい記者――それは個人的友人でもありうる――に依頼されると人は無下に断われない、あるいはノーといい難い状況におかれ、強い心理的圧迫を受けるのであるが、このような場合の依頼も「自由な意思決定を不可能にする」ということになるのであろうか。あるいは又、相手方公務員が取材記者に何らかの恩義や義理を感ずるような立場にある場合、又記者から人事情報等何らかの見返えりを期待するような立場にあつて、ノーといい難い場合、このような相手に秘密情報の提供を求めることはどうか。更に積極的に記者の側が公務員に何かをしてやり、ギブ・アンド・テイク的に情報を求めたらどうか。あるいは、有力政治家に対する影響力又はコネを有する記者がその点を十分認識して、有力政治家に頼つて出世したいと思つている公務員に情報を求める場合はどうか、更に又、取材記者と相手方公務員が親しいという以上に親友であつたり、あるいは恋愛感情を抱いている間柄であつたり、親戚であつたりした場合はどうか。
これらの場合はいずれも公務員の側は単に顔見知りの記者から依頼を受けた場合よりもはるかに依頼を断わり難く、記者もそのことを十分知つた上で、情報提供を求めているのである。当然に相手方公務員は強い困惑と弱みを感じ、依頼を拒否しようとすれば負担と圧力を感じるのである。このような依頼は相手方の心のゆとりがない状態でのしようようともいえるし、又右のように個人的信頼や友情、愛情をもとに、これを利用してしようようしたりすることは、相手の意思決定の自由を不可能にはしないまでも倫理的には相当性に疑いがある行為ともいえるのである。原判決は右に述べたような場合における取材を一体、どのように判断するのであろうか。敢材にあたる記者としては一体どこまでが正当で、どこからが許されないのか、原判決の定義が首尾一貫せず、そごしているが故に迷わざるを得ないのである。
従つて、原判決は、将来の取材活動一般に禁圧的効果を及ばさないような明確な定義を考えるといいつつも、その定義には尚不明確さが残つているので、将来の取材活動に対する禁圧的効果は否定しきれないのである。
4 あるべき基準
それでは取材の自由とそそのかし罪適用の関係でどのような基準を考えれば良いであろうか。
原判決は、成功しなかつたとは言え、構成要件たる「そそのかし」の限定という途をとつた。弁護人らは原審弁論において、正当業務行為という表現を使つた。形式的に構成要件に該当しても、類型的に違法性が阻却される行為の範囲を画するものであるという意味においては、それは構成要件の限定解釈と実質的には変りはない。従つて、構成要件の限定といおうと、正当業務行為の範囲を考えるといおうと、その結果は同じであるが、我々は、そのようなものとして、原審以来述べて来た「取材対象者の漏示意思の形成について脅迫や詐欺、贈賄等の形法上違法な手段を用いないこと及び取材対象者の自由意思を否定しないものである限りはすべて国公法一一一条のそそのかし罪に当らない」とする基準が正当であると考える。
ここに「取材対象者の自由意思を否定しない」とは、「自由意思を制圧しないこと」とほぼ同義であるが、要するに情報を提供するかあるいは拒否するかの選択について、取材相手に心理的影響を与える程度のことはすべて正当であり、ただ刑法上、民法上意思表示に瑕疵を生ぜしめるような方法のみが許されないということである。
これによれば第一にそそのかし罪の成否は秘密の程度と無関係であり、一般の違法阻却事由のような緊急性、補充性、法益の均衡というような具体的事情の存在は必要でない。つまり、手段が刑法上の違法な行為又は厳密には脅迫罪にならないが、これに近い方法のみが許されないこととなり、憲法基準としては明確であり、取材記者が自らの取材方法が許されるのか、そうでないかも容易に判断できる。
(それでは、刑法に触れ、又は相手の意思を制圧するような取材であれば、直ちに違法性阻却の余地はなくなるのかといえば、類型的に違法性が阻却されることはない。しかし、更に、通常の個別的違法阻却を考える余地はあるのである。即ち、秘密の違法、不当性や国民が秘密を知ることの利益や必要性が当然総合判断されるのである。ただこの場合には、判断はケース・バイ・ケースの個々的なものとなり、判断の基準性は不明確になる。従つて、取材の手段・方法の違法性が外形上明らかであるようなものに限定してごく例外的にのみ、このような個別的正当行為性が論じられなければならないのである)。
第二に、現在日常的に行われている取材の実情を禁喝することもないし、社会的に信頼を受けている新聞社とその記者達の取材上のプラクテイスと意識にも合致する(前記検察官の基準がいかに社会的に信頼を受けている新聞社と記者のプラクテイスや意識とかけ離れたものであるかは前述したとおりである)。
第三にそれは取材の自由を広く認めることにより、報道・取材の自由をできる限り広く保障するという目的にかない、同時に取材される公務員の保護にもかけるところはないのである。
三、本件取材行為をそそのかしに当るとした判断の誤り
以上のように原判決の限定解釈はあいまい不明確である為、原判決は以下に述べるように本件西山記者の取材行為を国公法一一一条のそそのかしに該当するとする誤りをおかしたものである。即ち、逆にいえば、本件の如き取材行為が限定された「そそのかし」に当てはまるとするならば、そのような「そそのかし」は限定として全く無意味であるといわざるを得ないのであり、本件への当てはめは、まさに「そそのかし」のあいまい、不明確さを示しているのである。本件の取材依頼は蓮見事務官の自由意思を否定して行なわれたものでもないし、極度に相当性を欠如するものといえないものであるからである。
以下その理由を詳述する。
1 原判決の認定
原判決は西山記者が蓮見事務官に昭和四六年五月二六日ころ愛知・マイヤー会談関係文書を頼むという指示を与えた時点及び同年六月七日頃愛知・ロジヤーズ会談関係文書を頼むという指示を与えた時点において西山記者が与えた影響力により、同事務官が必ず指示に応じ、秘密文書を同記者の手中に届けるという状況となり、同事務官において指示をうけるたびに改めてどうするか意思決定をする心のゆとりが全く存在しない状態になつており、同記者は同事務官がこのような状態になつていることを知りながら、各秘密文書の漏示をしようようしたものと優に推認でき、これは限定解釈を加えた「そそのかし」罪に該当するとした。
原判決のいう「西山記者が与えた影響力」というのが何であるか判文上何らの説明もないので明らかではないが、一方で蓮見事務官は、肉体関係ができた女性の弱い立場と西山記者の態度がしつよう、強引であつたということ(但し連日のように「頼むぞ」という電話をした点については西山記者が明白に否定するところである)をしきりに強調し、男女関係におち入つたことが、どんなに女性を束縛するものであるか、又西山記者との特別な関係が明るみに出されることをいかに恐れていたかを繰り返し述べ、他方、他に何らの証拠もないので、原判決も二人の肉体関係が蓮見事務官にそのような影響力を与えた主な要素であると判断したものと推測されるのである。
2 二人の関係
果して、このような判断が証拠上、条理上肯認できるものであろうか。
西山記者と蓮見事務官は、西山記者が蓮見事務官の上司たる安川審議官と親しく、同審議官を毎日ひんぱんに取材に訪れ、又その為の電話をするところからおのずと親しくなり、機会を見て食事を一緒にしようという程の間柄であつた。そして昭和四七年五月一八日ごく自然な成り行きから飲食を共にし、肉体関係を持ち、親密な関係を有するに至つたものであるが、二二日にも同様の関係を持つたのち、西山記者は蓮見事務官と親しい関係になつたので、当時沖繩返還交渉を取材中であつたところから、「安川審議官のところへ回つてくる書類を見せてくれないか」、「沖繩返還交渉と中国代表権問題とに関する書類を安川審議官のところから持ち出してほしい」等と頼んだ。そして、蓮見事務官がこれに応じ、以後五月二四日から九月中頃まで二人で打ち合わせた場所(主として秋本事務所)、時刻において、本件電信文を含む文書を西山記者に閲覧させた、というものである。
この間の状況は、蓮見事務官も「西山記者から、『何とか助けてくれ、本当に困つている』といわれ、西山さんのような立派な記者がそこまでいう以上、本当に困つているのだろうと西山さんの立場に同情し、情にほだされてしまつたこともありました」と述べているし、又同事務官の供述及び西山記者の供述から認められる以下の客観的諸事実は、同事務官の当時の心理状態が決して、西山記者が指示すると、その指示に応じて秘密文書を届けるか否かの意思決定をする心のゆとりが全くない、いわばあやつり人形の如きものではなかつたことを物語つているのである(尚西山記者は審理の全過程を通じて、ニユース・ソースたる蓮見事務官の人格に対する配慮と、二人の関係についての事実を詳しく述べれば週刊誌等に書きまくられ、蓮見事務官や自己の家族にもその被害が及ぶおそれがあるところから、二人の関係についての一方的な蓮見供述にもいちいち反論したりすることなく、最少限の供述しかしていない、という点に十分留意されたい)。
即ち、
(1) 蓮見事務官は五月二二日初めて依頼を受け直ちに二四日に第一回目の文書の持ち出しを行なつたのであるが、以後九月中旬頃までの長期間原判決にも認めるように一度も断つたり、できないなどといつたことはなく、連日の如くに多数回にわたつて文書を持ち出している。
(2) 会う場所の指定についても五月二二日ホテル・ニユーオータニ内のバー・カプリを指定したのは同人であるし、文書も西山記者から指示もうけないのに気をきかせてコピーにして持ち出している。
(3) また西山記者からは条約関係のものとのみいわれていたというのに、気を利かせて同記者の役に立とうと思い、条約局長井川の名のあつた井川・スナイダー会談の電信文をコピーしている。
(4) 西山記者が六月米国へ行つている時にも、二度にわたつてわざわざ米国へまで送付している。
(5) 二人の関係は決して蓮見事務官が述べるが如きさくばくたるものではなく(もしそのようなものなら長く続く筈もない)、双方が互いの身上や立場を話し、良く知つた上での大人の関係であり、双方とも密会の際飲食を共にし、これを楽しんだものである。
(6) 蓮見事務官は中年の職業婦人としてその年令からいつても、経験からいつても社会経験と判断力が十分ある女性である。
(7) 西山記者は、二人の関係を明らかにしたりする意図もなかつたし、そのような態度、言動をとつたことは一度もなかつた。このことは西山記者も家庭があり、自らも失うものが大きいことからも当然である。
(8) このような二人の関係は理由は明らかでないが、蓮見事務官のイニシアテイブによつて終了し、西山記者が文書のことは構わないから会おうといつても蓮見事務官は都合が悪い等といつて最早会おうとしなかつた。
(9) 蓮見事務官は西山記者が自分の上司たる安川審議官と極めて親しい記者であることを良く知つていたし、又新聞記者であるから文書を悪用したり、同事務官に不利になるように扱つたりすることはないという安心感を持つていた。
(10) 蓮見事務官は検察官の面前や公判廷では「西山記者との特別の関係というものが明るみに出されることを私は非常に恐れておりました」といいながら、本件公判中も多数回にわたつて週刊誌に手記を書き、又その取材に応じ(「女性自身」昭和四九年二月九・一六日号三二頁、同昭和四九年二月二三日号三四頁、週刊新潮昭和四九年二月七日号三二頁、「週刊ポスト」昭和四九年二月一五日号三四頁)、あげくの果てにはテレビにまで出演しているのであるが、(昭和四九年二月一四日午後三時フジテレビ「三時のあなた」)このような態度は、関係が明るみに出ることを恐れて戦々兢々としていたという同事務官の供述には甚だ似つかわしくないことである。
西山記者の依頼に応じてとはいえ、多くの文書を持ち出し、同記者に見せた事実と共に、他人には知られたくない両名の関係が捜査の過程で公けになつてしまつた以上、そしてそのことが西山記者のニユース・ソース秘匿についての配慮が万全でなかつたことに端を発している以上、同事務官が自己の立場をそれなりにとりつくろうとし、らつ腕記者にダマされた、あるいはいいなりにされてしまつたという被害者的立場とる心情と理由はそれなりに理解できないわけではない。
しかしながら、同事務官の内心、心理についての事後の主観的供述を離れて、右のような客観的事実を見る時には、同事務官の供述の多くの部分は決して、関係継続当時の心理状態を正確に述べたものとはいえないのである。
右各事実よりしても、二人の関係は決して原判決の述べるが如き蓮見事務官が意思決定の自由を有しないというようなものではなく、むしろ蓮見事務官が、西山記者から一旦依頼されると、これに応じて、好意的にかつ積極的に文書を見せて協力し同人は文書の提供も関係の継続もいつでも終了させうる立場にあつたと見るのがより自然である。
3 原判決の裏にひそむ女性従属論の誤り
それにもかかわらず、原判決が蓮見事務官は意思決定をする心のゆとりが全く存在していない状態にあつたのだとするのは、一面原審裁判官の発想の根底に二人の関係に対する否定的価値判断と男女関係における女性弱者論あるいは女性従属論ともいうべきものが潜在していることからであると考えられる。
まず、二人の関係の価値判断について言えば、それは倫理的には消極的評価を受けるものではあろう。しかしながら取材記者と取材相手の関係はいつもがいつも社会的に賞讃されるようなものであるとは限らない。前述したようにそこには信頼と友情もあれば相互の利害と打算、損得の勘定も働いているのであり、記者は取材の為には時として犯罪者やアウト・ローとも親しくならなければならないのである。取材活動は決してきれいごとではなく、きわめて現実的なドロドロとした生の人間の行動であり、人間関係であることを忘れてはならないのである。ここに倫理的価値判断を持ちこみスクリーンすれば、多くの現に行なわれている取材活動が禁圧されるばかりでなく、結局は関係の倫理性によつて処罰が左右されるという、法とモラルの混こうに行きつくことになるのである。
次は原判決の女性観であるが、これは男女関係があつた場合には、その後女性は常に弱者として束縛され、男の頼みごとは断われないものであるという見解のようである。前述した通り蓮見事務官も事件後はこのような見解と立場に身をおいて供述しているものと思われる(そうだとすると肉体関係があつた女性に秘密文書を依頼することはすべて国公法一一一条に違反することになる)。
しかしながら、このような見解が正当であるとする証拠は全く存しない。このような見解は女性を従属視する男性優位の考え方であり、封建的思考の残しとも考えられるのであるが、少なくとも現在においては争いのない公理でも法則でもないことは明らかである。
結局本件では、蓮見事務官も認めているように、西山記者がおどかしめいたことをいつたことは一切ないし、また同事務官が西山記者の依頼を断つたこともない。四〇才をこえ、社会的地位も経験もある二人の関係は約四ケ月続いた。そして、蓮見事務官の意思により二人は分れた。
このような基本的事実から、蓮見事務官が、自由な意思決定の不可能な状況にあり、あたかも機械人形の如くに西山記者のいいなりになつて、長期間にわたつて秘密文書を渡していたなどという原判決の認定は到底正当とはいえないのである。
当弁護人らは、本来明確なるべき国公法一一一条の適用が、男女間の複雑微妙な心理如何、その点の裁判官の主観的判断如何にかかるなどということには到底賛同することはできない。男女間の心理の交錯はそれ自体多様であるばかりでなく、それに対する評価も又、個人のうけた教育、育つた家庭環境、社会的適応性、そのジエネレーシヨンによつて様々である。このような問題について、結局は裁判官の一義的判断を求め、更にその主観的判断如何によつて、憲法上の自由が左右されるなどというのは、憲法判断の方法として、根本的に誤つていると考えるのである。
この意味において、むしろ第一審判決が西山記者の本件取材行為を「蓮見との間の肉体関係ないし、肉体関係から生じた蓮見の好意や同情心を利用した」だけで、「ことさらにしつようないし強引になされたものでない」と認め、
「さらにまた被告人西山が被告人蓮見との肉体関係や同被告人の好意または同情心を利用したという点は、右肉体関係が分別をわきまえた両者の合意の上で生じたものであるという経緯を考えると、このことが法の領域 すなわち違法性の有無に関する問題)において論ずるよりも、その不当性の是正は社会一般や記者相互間の指弾または倫理的非難にゆだねたほうがより適切であると考えられないではなく、したがつて法がこのような領域に深く立ち入るべきではないという側面のあることは否定できない。」
としているのは、それなりに的を得たものと思われるのである。
4 むすび
以上述べて来たところからして、西山記者の本件取材行為は蓮見事務官が自由な意思決定をすることが不可能な状況でなされたり、蓮見事務官の自由意思を制圧してなされたものではないことは勿論、いかなる意味においても国公法一一一条に定めるそそのかし罪に該当しないものであることは明らかであり、これと反対の判断をした原判決は国公法一一一条の解釈適用の誤り、ひいて憲法二一条の違反をおかしたものといわざるを得ないのである。
第二点 国公法一一一条、一〇九条一二号等にいう秘密の解釈適用の誤りと審理不尽、判断遺脱
原判決は、国家公務員法一一一条、一〇九条一二号、一〇〇条一項にいう秘密について、その解釈適用を誤り、ひいては審理不尽、判断遺脱の違法を犯しているもので、それは判決に影響を及ぼすものであるとともに原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものである。
一、原判決の判示
原判決は、国公法一一一条、一〇九条一二号、一〇〇条一項にいう秘密の解釈について、まず一般論としては次のとおり判示している。
「国公務一一一条、一〇九条一二号にいう秘密とは、秘密指定権のある公務員により、秘密指定権者以外の公務員に対し、その漏示を禁ずる職務命令としての秘密指定がなされた知識、文書又は物件のうち、同条所定の刑罰をもつて保護するに足りる価値ないし必要性を備えた、いわゆる実質秘であることを要すること、並びに非公知性と秘匿の必要性の有無が、同法一〇九条一二号及び一一一条を適用するにあたり、裁判所の司法審査の対象となるものであることは、いずれも原判示の通りである。」(原判決二五丁表)
そして、本件の一〇三四号電信文案及び第八七七号来電文(以下本件各電信文という)が、右各法条にいう秘密に当るか否かの、即ち右各電信文の実質秘性の具体的判断としては、「外交電信文という形式上も、また条約締結を目的とする外交交渉の会談での交渉当事者の発言内容の要旨を記載したものというその一般的内容上、並びに第一〇三四号電信文案及び第八七七号来電文の記載内容上も」秘匿の必要性のある文書に当るとし、右各電信文は国公法一〇九条一二号、一〇〇条にいう秘密に該当する旨判示している(原判決二六丁裏から二七丁表)。
原判決の右判示のうち国公法一一一条、一〇九条一二号等にいう秘密とは実質秘であることを要し、実質秘性即ち非公知性と秘匿の必要性の有無は司法審査の対象となるとした一般的解釈については、まことに正当であつて何ら異をとなえるところはない。
しかしながら、原判決が、具体的に本件各電信文について、それが右にいう秘密に当るとした点については、以下に詳述するとおり、国公法一一一条、一〇九条一二号、一〇〇条一項にいう秘密の解釈、適用を誤つたものであり、ひいては審理不尽、判断遺脱の違法を犯しているものである。
二、原判決が、本件各電信文の実質秘性をその形式や一般的内容をもとに判断したことの誤り
すなわち、まず第一に、原判決は、本件各電信文の秘匿の必要性を肯認し、それが国公法一一一条、一〇九条一二号等にいう秘密に当ると認定、判示するに際し、前記のとおり、その外交電信文という情報の形式や、条約締結が目的の外交交渉の会談での当事者の発言内容の要旨を記載したものという、情報の一般的内容をその判断根拠としている。
しかしながら、凡そ外交電信文といつても、その記載内容が常に当然に秘匿を必要とする情報であつたという証拠は全くないし、また、条約締結を目的とする外交会談での当事者の発言についても、それが常に秘匿を必要とするような内容のものであるとも限らない。
そもそも、外交々渉の経過、外交会談での当事者の発言内容について、それを常に刑罰によつて保護されるべき秘密であるとする考え方は、旧外交の残滓であつて、民主政治下の現代の実情にも合致せぬ誤れる考え方であり、外交に対する民主的コントロール、密約の防止等を考えると、むしろ外交々渉の経過は原則として公開さるべきものなのである。このことは、弁護人が一審以来強く主張し、また一審および原審で取調べられた証拠にもとづき繰り返し論証をしてきたところである(第一審における弁護人の弁論要旨第七、原審における答弁書第一、四、答弁補充書五三頁以下、弁論要旨三項等参照)。
のみならず、一口に外交会談における当事者の発言などといつても、その実態は、例えば、いわゆるロツキード事件の検察官の冒頭陳述で明らかにされた、ハワイにおける田中・ニクソン会談でのロツキード製航空機の売込みに関する発言(後註)の如く、違法行為に関連する発言があつたり、本件の一〇三四号電信文案中に記載されているFEBC問題に関するニクソン大統領の一族の私的利益にからんだ発言の如く、公私混同の行為に関する発言があるなど種々様々なのであり、従つて、この実態の面からみても、外交会談の発言内容だからといつて、あるいは、それを記載した外交電信文であるからといつて、そのことから当然にその実質秘性を肯認するわけにはいかないのである。
このように、情報の実質秘性をその形式や一般的内容から判断することは、秘匿の必要性のないもの、あるいは後述のとおり秘密としての保護を与えてはならないものまで保護することにつながるのであつて、実質秘性の判断方法としては許されないものといわなければならない(なお、この点について、原審における答弁補充書四六頁以下および弁論要旨一三頁以下を参照)。
(注) 被告人田中角栄らに対する受託収賄等被告事件における検察官の冒頭陳述第四、五項(田中の関係者に対する働きかけ)によると、田中角栄は小佐野賢治に対し「実は、ニクソンとの会談でハワイに行つた際、ニクソンから目本が導入する飛行機はロツキード社のトライスターにしてもらうとありがたいと言われた」と話したとされている(朝日ジヤーナル一九七七年二月一一日号二九頁による)。
三、本件各電信文は違法秘密である。
1 ところで、第二に、原判決は、本件各電信文の実質秘性を肯認した根拠として、その文書の形式や一般的内容を挙げた他に、前記のとおり、「一〇三四号電信文案及び八七七号来電文の記載内容上も」秘匿の必要性のある文書に当る旨の判示をしている。
しかしながら、本件各電信文の記載内容の主たるものは、一審以来弁護人および被告人が強く主張し後にも詳述するとおり、我国の国会の条約審議権を侵害する憲法違反の行為に関する発言内容であり、右各電信文の秘密指定は、かかる違憲・違法な行為を秘匿するためのものであつて、違法な秘密といわなければならないものである。
そもそも、国公法一一一条、一〇九条一二号、一〇〇条一項にいう秘密とは、原判決も判示するとおり、「刑罰をもつて保護するに足りる価値ないし必要性を備えた」ものでなければならないのであるから、その情報の内容は、刑罰的保護を受けるための当然の前提として、適法かつ正当な行為に関するものでなければならないことは、公務執行防害罪の保護法益たる公務等の場合と同様、論をまたないところである。
しかるに、本件各電信文は、前述し、かつ以下に詳述するとおり、違法行為に関する発言を内容とするものであつて、そこに秘匿の必要性を認めることができないのは勿論のこと、違法秘密として秘匿について保護を与えてはならない性質のものなのである。
従つて、このような本件各電信文に秘匿の必要性を肯認し、国公法一一一条、一〇九条一二号等にいう秘密に当るとした原判決の判断は、右各法条にいう秘密の解釈適用を誤つたものといわなければならない。
2 すなわち、本件各電信文は、いずれも、いわゆる沖繩返還協定における軍用地復元補償、即ち対米請求権の財源肩代りの密約と、いわゆる地位協定にもとづく六、五〇〇万ドルの対米支払いの密約に関する交渉当事者の発言内容を、その記載内容とするものなのである。
前者の密約、即ち対米請求権の財源肩代りの密約とは、いわゆる沖繩返還協定の協定文上にはアメリカ側が一定の軍用地復元補償の「自発的支払」を行う旨の、第四条三項の如き規定を置きながら、真実は、その規定を置くのと引換えに日本側がその財源を同協定七条の対米支払いの金額に含ませて負担するとの裏の合意を指す。
後者の密約、即ち、六、五〇〇万ドルの密約とは、従来我国政府は、アメリカの行政協定にもとづく米軍基地の施設費の負担については、基地の削減のための基地の統合、新設の場合にのみ負担するとの解釈をとつてきたが、アメリカ側が、沖繩返還に伴う米軍基地の整理の遂行上向う五年間に必要と見積られた施設費六、五〇〇万ドルについては、従来の施設費負担の要件の限定をゆるめ、その支払いをすることを、右協定外において秘密裡に約束したことを指す。
3 弁護人らは、第一審以来、これらの密約の論証を繰り返し詳しく行つてきたが(第一審の弁論要旨第二部(各論)第一、三および四や、原審における答弁書第一、五、(二)答弁補充書第五、一、(一)、(5)および(6)、原審の弁論要旨六項等参照)、第一審判決もまた、請求権財源肩代りの密約について「請求権財源は日本側がこれを実質的に負担するという合意が沖縛返還交渉において成立したのではないかという合理的疑惑が存在することを否定し得ない」としたうえ、「右合意が成立したことを、体裁を整えることによつて日本国民の目から隠そうと日本側交渉担当者が(略)考慮していたという合理的疑惑が存在し、右疑惑を打ち消し得るに足る証拠はない」と判示し、右密約の存在を肯定しているのである。
ところで、これまで公判定で明らかにされた右密約の証拠のなかで、決定的ともいうべき証拠は本件各電信文および五五九号電信文案(別電を含む)であり、その記載内容を挙げると次のとおりである。
4 すなわち、まず請求権財源の肩代りの密約についてであるが、
(イ) 昭和四六年五月二八日に行なわれた愛知・マイヤー会談の結果を記載した一〇三四号電信文案中の請求権の項には、次のような交渉当事者のやりとりが書かれている。
「本大臣よる日本案を受諾されたしと述べたところ大使より米側としては日本側の立場は良く分かり、かつ財源の心配までしてもらつたことは多としているが、議会に対して『見舞金』については予算要求をしないとの言質をとられているので非常な困難に直面していると述べ『ス』公使より第四条三項日本案の文言では必ず議会に対し財源に関する公開の説明を要求され、かえつて日本側が困るのではないか、問題は実質ではなくアピアランスであると補足した。本大臣より重ねて何とか政治的に解決する方法を探求されたく、なおせつかくの三二〇がうまくいかず三一六という端数となつては対外説明が難しくなる旨付言しておいた」(但し、傍線は弁護人)。
ここでいう「本大臣」とは愛知外務大臣(当時)であり、『ス』公使とはスナイダー公使のことである。また、「財源」とは、文脈からいつて当然沖繩返還協定四条三項、即ち対米請求権の財源の意味であり、「三二〇」とは対米支払額の三億二、〇〇〇万ドルのことである。
(ロ) 次に、同年六月九日東京で行われた井川・スナイダー会談に関する第五五九号電信文であるが、これはその全文が右密約のための技術的なやりとりの記録である。すなわち、
「(1) 冒頭、米側より、鋭意検討の結果、一八九六年二月制定にかかる、いわゆる信託基金法に基づき、請求権に関する日本側の提案を受諾することが可能となつたと述べた上、次のとおり提案した。
(イ) 日本側第四条第三項案に次のとおり追加する。「ただし同項により支払われる金額は四〇〇万ドルを越えないこと」、(ロ) 前記信託基金設立のため、愛知大臣よりマイヤー大使あてに「日本政府は、米政府による見舞金支払いのための信託基金設立のため、四〇〇万米ドルを米側に支払うものである」旨の不公表書簡の発出を必要とする。本件書簡は米政府部内でジエネラル・アカウンタントに対する説明上必要とされる場合に提示するにとどめられ、この場合も極秘資料として取扱うものであり、日本側に迷惑となるようなことはないことをアシユアしたく、本件書簡がないと請求権に関する日本側の提案は受諾し得なくなる。(ハ) Y条に関する米側説明振りに関し、執ように食いさがられる場合には、to pay for ne-cessary expenes 「including the es-tablishment of Trust Fund for the exgratia payments to be made un-der Article4」の趣旨を追記して説明せざるを得ないことを了承願いたい。
(2) 右に対し日本側より、前記(ハ)の趣旨については了承するも、(イ)は米側内部の問題であり(かかる規定がなくとも、米側はこの支出を四〇〇万に押えることができるはず)協定に書く必要なく、かつ不適当である。(ロ)についてはいかにコンフイデンシヤルな書類であろうと、資金源について書くことは全く受入れ難い旨強く反駁した。
(3) 種々議論の後、我が方より前記(ロ)の書簡案として、別電の案文を提示したところ『ス』はこのことも本国政府の訓令を越えるものであるとしつつも、日本側の提案を本国政府へとりつぐ旨述べた。我が方より日本側としても政府部内で検討してみないと何とも言えないので、至急愛知大臣と協議することとしたい旨述べ、会談を了した。」
(ハ) 右井川・スナイダー会談の直後、パリで行われた愛知・ロジヤーズ会談に関する八七七号電信文の一部も、右密約の証拠である。もつとも、右電信文については、検察官は秘密指定が解除されていないとの理由で証拠として公判廷に提出せず、また弁護人らが申し立てた右電信文の差押え、提出命令の申立てを外務大臣は拒否したので、記載内容の正確なところは知りうべくもない。従つて、その記載内容を知るには不完全ながら証人吉野文六の証言によらざるを得ないが、同証人の証言によると右電信文には、「愛知大臣が、『本件書簡の表現ぶりについてはすでに東京において一応合意に達した旨の連絡を受けているが、公表される可能性があるというのであれば、表現もより慎重に考える』と述べ、これに対し、ロジヤーズ長官は『日本政府の立場も理解できるので、米側の法的な要件を満たしつつ、日本側の立場をも配慮した表現を発見することは可能と思う』と述べた」旨の記載がある。なお、同証人は、右電信文によると、この会談では不公表書簡の発出を前提として、その表現ぶりをどうするか、ということが中心問題となつていることを認めているのである。
以上三通の電信文を、時間をおつて、文言通りに素直に読めば、密約の成立過程が明らかに認められるのである。すなわち、日本側の対米請求権を認めるようにとの要求、具体的には軍用地復元補償費の自発的支払いを定めた四条三項を認めるようにとの要求に対し、アメリカ側は沖繩の返還に際して予算要求はしないとの言質を議会にとられているということをタテに容易に右要求を受け入れないため、その打開策として、日本側がその財源を対米支払額に上乗せして負担するのと引換えに四条三項をアメリカ側がのむよう提案した。これに対し、アメリカ側は一度は難色を示したが(一〇三四号電信文)、結局技術的に受諾可能ということになり(五五九号電信文)、四条三項が設けられたという経過が認められるのである。
日本側が対米請求権の財源を肩代りするが故に、一〇三四号電信文の前掲引用部分にあるように、アメリカ側は、「財源の心配までしてもらつたことは多としている」などというのであり、米議会で四条三項の財源に関する公開の説明を要求されると日本側が困ることになるのである。そしてまた、それ故に四条三項が受諾されないと、対米支払額は、三二〇(三億二、〇〇〇万ドル)から対米請求権の財源分四(四〇〇万ドル)だけ減つた三一六(三億一、六〇〇万ドルという端数)にならざるをえないのである。
5 このような密約について、沖繩返還交渉の直接の担当者で外務省高官であつた吉野文六(当時アメリカ局長)、井川克一(当時条約局長)らは、第一審公判廷において、それを必死に否定しようとした。しかし、その各証言は、第一審判決をして「供述内容に合理性を欠く部分(中略)が随所に存在すること、右両供述相互間にかなり矛盾が見られること、および右両名の供述状況を考え合わせると」措信できないといわしめたほどのものなのである。
この第一審判決のいう「供述状況」なるものが、尋問が密約を裏付ける肝腎な事実関係に触れると、「覚えておりません」と虚偽の答えをし、「記憶喪失」や「職務上の秘密」に名をかり証言を拒否した供述態度や、特に井川の証言にみられたのであるが、当然知つていると考えられる事項に関する検察官の明確な質問にさえも間をとつて即答しなかつたり、はぐらかしてまともに答えず、あげくのはては尋問の趣旨がはつきりしないなどといつたりして、ついには裁判所からも注意をうけた証言態度などを指すことはいうまでもない。
その具体例については、既に第一審および原審において詳しく述べているが(第一審の弁論要旨第二部(各論)第一、三、(四)や原審の答弁書第一、五、(二)、(2)、(エ))、ここでその一例を再度挙げるとつぎのとおりである。
すなわち吉野は、当時沖繩返還交渉の主管局たるアメリカ局の長として問題のすべてに関与し、かつ毎日のようにほとんどすべての会談に出席していた事務レベルの最高責任者であつたのであるから、右交渉の最重要問題の一つであつた対米支払額が、いつ、いくらの提案から三億二千万ドルに最終的に決定されたのか、その時期、経緯を当然記憶し、知つていてしかるべきであるのに、その点に尋問が及ぶと、吉野は、それが密約を裏付ける事実に関するものであるため、「覚えておりません」とか「知りませんですね」と次のように証言しているのである。これは明らかに虚偽の証言である。
すなわち、
「問 それで(あなたが交渉を)引継いだころはアメリカ側の要求はどの位になつたのですか。
答 あまり覚えていませんですね。
…………
問 柏木さんとデユーリツクの間で大体の線がきまつて、それが持ちこま れたのではないですか。
答 そういえばそうかも知れませんですね。
問 いやよく覚えていらつしやるんじやないんですか。五、六億ドルというので外務省に来たわけじやないですよね。
答 しかしこの数字は覚えておりません。
…………
問 四月二二日に柏木さんとデユーリツクとの間で大体三億ドルということでほぼ目安がついているのではないですか。
答 それは知りませんですね。
問 じや間違いですか。これは。
答 それは間違いかどうかも知りません。
…………
答 ですから私の記憶に残つているのは三億二千万ドルの数字だけです。
問 だから三億二千万ドルの数字の前はいくらなのですか。
答 覚えておりません。
問 三億ドルだつたのでしよう。
答 それも覚えておりません。
…………
問 お答え下さい。こんなこと忘れるはずがないと通常考えられるわけですね。いやしくもあなたはこの交渉の主管局長なのですから。この前おつしやつたように、主管局長は三億二千万ドルだけは覚えているけれどもその前の数字は全然覚えていないということはあり得ない、だからおつしやつて下さい。
(答えなし)
というような具合である。
このような虚偽の証言は、当時アメリカ局北米一課の首席事務官で五五九号電信文案の起案者であつた佐藤嘉恭の証言にもみられる。同人は、第一審公判廷において、同人の起案した右電信文の記載内容の意味を質した尋問に対し、自分の起案であるにもかかわらず、また、捜査段階で検察官に対してはその内容を解説しているにもかかわらず、公判廷では、その記載内容は「理解不能」であるとして証言を拒否したのである。これも驚くべき偽証である。
かかる虚偽の供述は、なにも公判廷においてだけでない。弁護人が原審において指摘したとおり、沖繩返還協定の国会における批准審議の過程においても同様であり、吉野、井川は勿論、福田外務大臣(当時)も再三にわたり本件電信文の存在を否定したうえ、虚偽の答弁を行なつたのである(原審の答弁補充書第五、一、(5)参照)。
以上のような多くの偽証や証言拒否の態度、虚偽の答弁は、単にその供述の信用性を否定する事情にとどまらず、密約の存在とその違法の重大さを積極的に裏付ける結果となつているといわなければならない。
なお、ちなみに当時外務審議官であつた安川壮は、警察における取調べに際し、次のようにのべている。
「今回の事件で蓮見君が西山記者に電報を渡していたことがわかりましたが、そういえば、私はこの西山君よりその当時、沖繩返還協定の請求権問題について何か情報を握つているようなことを言われたことがありました。それはたしか昭和四六年六月十日すぎごろであつたように思つています。西山記者が私の室に来て『沖縛返還協定の請求権問題で、外務大臣からアメリカ側へ手紙を出すという話がある。それは何を意味するかというと、アメリカが支払うべき銭を日本が肩代りするという裏取引のことだ。こういう情報を握つているがどうですか』と言いました、この話を聞いた私は、この内容は外務省で極秘にしていたものであつたため、内心はつとしましたが、『そんな話は初耳だ。君はどこでそんな話を聞いたのか』とごまかして聞くと、西山君は『外務省ではありません。大蔵省筋からです』などといつてその日は帰りました。このため私は早速担当の千葉北米一課長を呼び、西山君が言つたことを伝えると……」(昭和四七年四月九日付司法警察員調書、但し、傍点は弁護人)
また安川壮は昭和四七年四月一〇日付検察官調書においても、全く同様の供述をしている。
右供述は極秘の肩代り密約を西山記者に指摘された右安川がいかに驚愕したかを示すものであり、この驚きが密約が事実であることを端的に示している。
6 次に、六、五〇〇万ドルの対米支払いの密約についてであるが、その決定的証拠ともいうべき電信文の記載内容は次のとおりである。
即ち、吉野証言によると、愛知・ロジャーズ会談の結果を記載した八七七号電信文には、
「『ロ』長官(ロジヤーズ長官―弁護人註)より、六五の使途につき日本政府のリベラルな解釈を期待するとの発言があり、これに対し本大臣より、できる限りのりベラルな解釈をアシユアする旨述べた」
との趣旨の記載があるのである。
この「六五」とはアメリカ側が沖繩返還に伴う米軍基地の整理の遂行上、向う五年間に必要な施設費として見積つた六、五〇〇万ドルのことで、いわゆる地位協定にもとづき日本側に支払いを求めるという金額を指し、その使途についての「リベラルな解釈」とは、従来我国政府は、基地の削減のための基地の統合、新設の場合にのみ、行政協定にもとづき施設費を負担するとの解釈をとつてきたが、その施設費負担の要件の限定をゆるめて、その支払いをすることを意味するものである。
そして「アシユア」とはいうまでもなく「保証」である。
要するに、これは我国政府の地位協定に対する解釈態度によれば支払いをしないはずの施設費についてまで、この沖繩返還交渉、特に愛知・ロジヤーズ会談において解釈態度を変更し、支払いをすることをアシユア、即ち保証をしたことを示している。即ち、具体的には六、五〇〇万ドルの支払いを約束したのである。これが約束でないとしたらなんであろうか。
そして、この約束は勿論返還協定に書かれず、また国会で報告すらなされなかつたのである。
7 ところで、このような密約は、単なる政治的な当否の次元の問題ではなく、違憲、違法の行為である。
従つて、右密約に関する情報の秘匿は、単なる「政治的利益のための情報の秘匿」にとどまらず、「違法行為の秘匿」との評価を受けなければならない。
すなわち、もし請求権財源の肩代りや、地位協定に関する解釈の変更が公表されるものとしてなされたのであれば、その当否は国会の審議や国民的討論によつて判定することが可能であり、従つてそれらは単なる政治問題にとどまるであろう。しかし、その肩代り等が本件のように密約として秘密裡になされ、国会の審議、批准さらには国民的討論を回避・潜脱する形でなされたならば、いうまでもなく国民はそれを知る術を持たないから、そもそもその当否を判定することはできないのである。それは政治問題ということでは済まされない。憲法四一条、七三条三号但し書に違反する国会の条約審議・承認権の侵害行為であり、外交に対する国会、国民のコントロール、ひいては国民主権自体を否定する重大な違憲行為と証価せざるをえないものである。
これを、少しく具体的に云えば、本件密約は、それこそが沖繩返還協定における対米支払いと対米請求権に関する「本物の合意」なのであり、国民に公表され国会の批准が求められた協定は、「偽の合意」にすぎない。政府は国会と国民に対しては軍用地復元補償費の「自発的支払い」などという「偽の合意」を示して沖縛返還協定の審理、審判を誤らしめ、対米請求権は日本側が実質的に肩代りすることにより解決するという「本物の合意」は秘匿して、その国会の批准と国民の批判を回避、潜脱したのである。
要するに、本件電信文は、このような条約に対する国会の審議・批准を潜脱する行為をその内容とするものなのである。これがなんで違憲・違法ではないといえようか。
そしてこの密約の違憲・違法性、その重大性は、肩代りした財源の金額の大小によつて左右されるものではない。金額にかかわらず、その事柄の性質上高度の違法性を有するものというべきなのである。何故ならば密約は、金額いかんにかかわらず、国会や国民に対し交渉と合意の事実を隠蔽し誤つた判断をなさしめる点において、条約に対する国会の審議・承認権それ自体の実質的侵害であり、現憲法の定める政治制度そのものの否定であつて、民主主義の根幹に触れるものであるからである。
8 以上、要するに本件各電信文は、明らかに違憲、違法な密約づくりに関する交渉当事者の発言内容をその記載内容としているものであるから、刑罰的保護を受けえないこと明白であり、国公法一一一条、一〇九条一二号等にいう秘密には当らないというべきである。
四、一部に違法秘密が含まれている場合と国公法一〇九条一二号等にいう秘密の解釈適用について
――原判決の解決適用の誤りと審理不尽、判断遺脱
1 もつとも、本件各電信文中には、前記密約以外に関するやりとりも記載されてはいる。
原判決は、それを根拠にして、本件各電信文は「仮に、その一部に擬似秘密に当る事項の記載が含まれているとしても、真正秘密であるその余の記載事項も含まれていることに鑑みれば、国公法一〇九条一二号、一〇〇条にいう秘密に該当するものであると認められる」と判示し、密約の交渉の有無、その違法性については全く判断を示していない。
しかしながら、そもそも原判決のいうその余の事項についても秘匿の必要性および公知性を欠き、真正な実質秘密とはいえないことは弁護人が一審および原審を通じ論証してきたところである。のみならず、その点はさておくとしても、原判決の右判示は、以下に述べるとおり、実質秘と不可分な一部に擬似秘密なかんずく違法秘密が含まれている場合における、国公法一〇九条一二号、一〇〇条一項にいう秘密の解釈、適用を誤つたものといわざるをえず、ひいては前記密約とその違法性に関する審理不尽、判断遺脱の違法を犯したものといわなければならない。
2 まず原判決の右のような誤りを指摘するに先立ち、その誤りの原因と思われる擬似秘密についての考察の不完全さにふれておきたい。
すなわち、原判決は、まず、真正秘密と擬似秘密について次のとおり判示している。
「近代民主主義国家において、指定秘とされる情報は、その漏示が国家の利益に反するとの判断により秘密とされる真正な秘密でなければならないが、稀には、国家の利益のためにではなく、時の政府の政治的利益のため、特定の情報を秘匿する目的で秘密指定がなされることがありうるのであり、前者は真正秘密(true secret)、後者は擬似秘密(false secret)と呼称される。」
そして、その「擬似秘密の中には、政府が憲法上授権されていない事項に関し行動したことを秘匿するために秘密指定のなされるものが想定されうる」として、それを「違法秘密」と呼んでいる。
原判決がこのように指定秘の中に実質秘たりえない「擬似秘密」があること、しかもその擬似秘密の中に「違法秘密」も想定しうるとしたこと自体は正当な指摘であり、弁護人も何ら異を唱えるものではない。
しかしながら、擬似秘密の中には、政府が「憲法上授権されていない事項に関し行動した」というほど違法性が強度でなくとも、憲法、法律に違反した違法な行為をしたことを秘匿するため秘密指定がなされるものも考えられるし、違法とまではいえないまでも正当とはいえない行動を秘匿するためのものも十分に考えられる。しかも、その違法行為等にはその違法性、不当性の程度において様々なグレイドのものが考えられる。
しかし、いずれにしても、それらは、その秘匿が保護に値しないという以上に、保護してはならないものであり、その点においては、原判決のいう違法秘密(以下これを狭義の違法秘密という)との間に差異は全くなく、その意味では、これも違法秘密と呼ぶべきものである(以下、狭義の違法秘密を含め、これを広義の違法秘密という)。
原判決は、指定の一部に擬似秘密が含まれている場合の実質秘性の判断に際し、このような広義の違法秘密の場合と、単なる政治的利益のための情報の秘匿の場合と区別して考察することを怠つた。
3 ところで、国公法一一一条、一〇九条一二号にいう秘密に当るというには、適法かつ正当な行為に関する情報でなければならないことは、先に述べたとおりであるが、その不可分的一部に広義の違法秘密が含まれている場合も、原則として右にいう秘密には当らないと解すべきである。
何故ならば、そのような場合にまで真正な実質秘密として、その秘匿に法的保護を与えると、いうまでもなくそれは結果的には違法行為の秘匿に保護を与えたことになるからである。
のみならず、不可分的一部に違法秘密があつても、全体は秘密として保護されるとなると、今度はその形式を利用し、他の真正秘密を隠れミノにして違法行為の秘匿を図る傾向が生じかねない。その場合には、違法行為は永久に摘発されずに終ることとなる。
特に最近は、前述したハワイにおける田中・ニクソン会談の如く、外交会談でも違法行為に関するやりとりがなされる時世でもあるから、仮に外交会談における発言内容は当然に実質秘密であるとし、その一部に違法秘密が含まれていてもその秘匿の刑罰的保護に変りはないとしてしまうと、その違法行為は永久に摘発されずに終り、外交会談の陰で贈収賄等の違法がはびこることになりかねないのである。
従つて、指定秘の不可分的一部に違法秘密がある以上、仮にその余の部分が真正な実質秘であつても、それは原則として国公法の前記各法条にいう秘密には当らないものとして、同法条の解釈適用を行なわなければならないというべきである。
もつとも、違法秘密にも前述のとおり色々な程度のものがあるし、不可分なその余の部分の秘匿の必要性にもグレードがあろう。場合によつては、違法秘密以外の部分が重大な実質秘で、その秘匿の必要性が、違法行為の秘匿に手を貸すことになる結果のマイナスを凌駕する場合も考えられないわけではない。従つてその二つの価値の衡量が必要になる場合もあろう。
しかし、いずれにせよ、指定秘の一部に擬似秘密が含まれている場合に、少くとも原判決のように、その余の記載事項が真正秘密であるというだけで、国公法一〇九条一二号等にいう秘密に当ると判断することは到底許されないというべきである。そのような場合には、その擬似秘密が、保護してはならない(広義の)違法秘密ではないかどうか、違法秘密だとした場合、その違法の程度はどうか、その余の真正秘密の秘匿の必要性はその違法性を凌駕するものであるか等につき、審理を尽しその判断を示さなければならないのである。
しかるに原判決は、前述のとおり、国公法一一一条、一〇九条一二号等にいう秘密の解釈を誤つたため本件各電信文の少くとも一部分には密約に関する違法な秘密が含まれているのにかかわらず、右のような点についての審理を尽さず、またそれについての判断を全く示すことなく、前述の判示の如く本件各電信文が右にいう秘密に当る旨認定してしまつたのである。
五、結論
以上要するに、原判決は、国公法一一一条、一〇九条一二号、一〇〇条一項にいう秘密の解釈適用を誤り、ひいては審理不尽、判断遺脱の違法を犯したものであり、その違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであつて、かつ原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものであるから、この点からも原判決は破棄されるべきである。
第三点 西山記者の一〇三四号電信文案の入手方依頼につき、秘密の認識を欠くとはいえないとした点における憲法二一条違反と法令の解釈適用の誤り
原判決が、本件第一〇三四号電信文案の入手方依頼した際、西山記者は確実な資料や根拠に照らし相当の理由がある場合でないのにこれを擬似秘密の疑ありとして取材したので未必の故意を欠くとはいえないとした点は、憲法第二一条に違反し、かつ、法令の解釈適用を誤り、その誤りは判決に影響を及ぼすものであり、これを破棄しなければ著しく正義に反する。
一、概要
先づ、この点に関する原判決の説示と結論を読んで、感ずる卒直な疑問は(一)原判決が、取材して見ない前から取材対象の内容が、確実な資料などによつて擬似秘密であるとわかつている場合に限り罪とならないとしているのと取材活動の実体とどうマツチするのかということと(二)原判決によれば、第一の犯罪行為によつて得た資料によつて、第二の行為が罪とならないことになるのは、どのような論理によつて、そうなるのかということの二点である。このような不合理な論理や結論が、どうして出て来たかについては、法的に十分な解析を行う必要があろう。
原判決が、表現の自由の保護と国家秘密の保護との両立を法解釈上のバランシングの上に確立しようと試み、その基準定立に努力した点は、評価できるが、この試みは必ずしも成功したものとはいい難く、取材の自由すなわち表現の自由を不当に制約し終つたことは、既に第二点までに指摘したとおりであるが、特に本問題点、すなわち「そそのかし行為」と「秘密」との結びつきの点においてもまた重大なあやまりを犯すに至つている。
すなわち、その一は、擬似秘密の取材が意図された場合かく信ずるにつき予め確定資料等が存在する場合にのみ犯意を阻却するとした点で、これは取材活動の実体を全く理解せず机上の論理により解決しようとしたため、実質上不法に取材活動を封殺し、ひいては、表現の自由を制約し、憲法二一条違反の結果を招来していることである。
その二は、擬似秘密であるとの認識につき、相当の理由があると客観的にも肯認し得る場合に限り、未必的な認誠を欠くとして罪の成立しない場合があり得るとし、犯意阻却に客観的相当性を必要とするとしている点であり、これは、法令の解釈適用を誤つたもので、そのため西山記者の本件第一〇三四号電信文案の入手依頼行為を故意ありと認定し、判決に重大な影響を及ぼしている。以下右二点につき詳述する。
二、擬似秘密の取材に、確実な資料等が予め存する場合にのみ未必の故意を阻却するとした点は憲法二一条に違反する。
原判決が漏示のしようようの対象となる秘密が、擬似秘密であると判断したことについて、確実な資料や根拠に照らし相当の理由があると客観的に肯認し得る場合に限り、未必的認識を欠くものとして犯意を阻却する場合があるとしている点は、取材が未だ内容不明な情報資料を入手しようとする行為である実情を無視し、この面における取材活動の自由を制約し、憲法第二一条に違反する。
原判決は「報道機関が、特定の秘密を擬似秘密だと判断したからといつて、それが本来真正秘密である場合、真正秘密でなくなるわけではないし、また、報道機関は、すべての秘密情報を国家と共有しうる立場にない以上、報道機関が、特定の秘密が擬似秘密かもしれないという疑惑を抱いた一事では、それが真正秘密かもしれないという未必的認識を払拭するに足りないものであるから、その漏示のしようよう行為が当裁判所の加えた限定解釈の下で『そそのかし』に該当する手段方法態様でなされた場合、国公法一一一条、一〇九条一二号の罪が成立するのは当然である。ただ例外的に、その漏示のしようようの対象となる秘密が、類似秘密であると主観的に判断したことについて、確実な資料や根拠に照らし相当の理由があると客観的にも肯認しうる場合には、その漏示のしようよう行為が、当裁判所の加えた限定解釈の下で、『そそのかし』に当たるとしても、『秘密』の点につき、確定的及び未必的な認識を欠くとして、国公法一一一条、一〇九条一二号の罪が成立しない場合がありうるのである」としている。
しかし、報道機関が取材するのは、原判決の右に述べるような確実な客観的資料や根拠があつて取材するのが一般であろうか。否寧ろこのような資料がないからこそ、取材により情報資料を蒐集するのである。いわゆるコンフアームのための取材は極めて稀な事例にしか過ぎないのが実情である。
従つて、原審証人内田健三氏も第四回公判において
「問題は、その秘密なるものが、取材をしてみなければ、秘密であるかどうかもわからないということであります」と証言している。その証言のとおり、取材前は、取材者にとつて、その取材対象が秘密であるかどうかさえわからないのが普通であり、真正秘密と擬似秘密との区別がわからないのは勿論、況んや、それが擬似秘密であるとする確証などあろう筈がないのである。
取材の本質は、未知の情報を蒐集するにあるのである。原判決は、この最も見易い理、自然の経験則ともいうべき事理に相反し、この面から、不当に取材活動を刑罰の威嚇により制限する結果に陥つているのである。
原審判決のあつた直後、この判決の影響等について座談会を催したジユリスト紙上(同誌第六二一巻、一九七六年九月一五日号の国家秘密と取材活動と題する座談会記事)において、内藤国夫記者は「第一真正秘密と擬似秘密がどうやつて区別するのですか。それがわからない以上、ぼくらとしては、広い意味のそそのかしという行為によつて取材する以外にないわけです。……中略……その触れた行為については、あとで、いさぎよくおとがめを受けましようと開き直るしかないのではないかと思います。」と原判決の示す基準による将来の取材活動の暗さを表現している。
擬似秘密、違法秘密こそ、国民の批判に露し討論の対象とする必要性が大であることは、敢えて、ロツキード事件を引例するまでもないことである この必要性に比例し、報道機関の取材活動がエスカレートして行くことも見易い理であることに鑑みるとき、荷くも擬似秘密乃至違法秘密であることの疑惑がある場合に、手持資料等による制約を設けることにより、これを制限するが如きは、取材活動に対する、この面からする重大な制限であり、ひいては、国民の知る権利、表現の自由に対する不当な拘束であつて、憲法第二一条に違反するものであることは、明らかである。
三、擬似秘密と信ずるにつき客観的相当性を要求することは、法令の解釈を誤つたものである。
原判決が、漏示しようようの対象となる秘密が、擬似秘密であると判断したことについて、確実な資料や根拠に照らし、相当の理由があると客観的に肯認し得る場合に限り、未必的認識を欠くものとして犯意を阻却する場合があるとしている点は、法令の解釈適用に誤りがあり、その誤りは、判決に影響を及ぼしている。
原判決が二、に掲げた文言のとおり、報道機関が特定の秘密か擬似秘密かも知れないという疑惑を抱いた一事を以つてしては、未必的認識を払拭するに足りないものであるとし、進んで、これが擬似秘密であると主観的に判断したことについて、確実な資料や根拠に照らし相当の理由があると客観的にも肯認し得る場合に限り未必的な認誠を欠く場合があるとしていることは、明らかである。
しかし乍ら、そそのかし罪は、秘密を漏示することをそそのかすことによつて成立し、そそのかし罪が成立するためには、漏示される対象が実質秘であることを認識していることを要する理であることは刑法三八条の規定に照し、多言を要しない。
しかして、擬似秘密乃至違法秘密が、実質秘に該当しないことは、原判決も是認するところであり、報道機関が漏示をそそのかした対象が、かかる擬似秘密乃至違法秘密であると認識して取材活動を開始した以上かかる取材行動が、具体的に未必の故意があつたものかどうかを決定するには、その判断の根拠に相当性、客観性がありやなしやの法解釈原理によるべきものではなく、構成要件の認識の有無についての事実認定如何に帰着すべき筋合の事柄であり、違法阻却事由たる事実の存否に対する認識の場合とは、自ら異り、事実認定と証明の分野において、判断すべき事項である。かかる分野に価値判断の基準である相当性、客観性を持ち込んだ原判決の右判示には、重大な法令適用の誤りがある。
四、西山記者の本件第一〇三四号電信文案入手依頼につき、未必の故意ありとしたことは、法令の適用を誤つたものである。
有罪とせられた西山記者の本件第一〇三四号電信文案入手の依頼当時の西山記者の認識を、その経緯をたどつて考察してみると、その頃西山記者担当の外務省ではアメリカとの沖繩交渉も大づめに近ずいていたが、沖繩県民らが重大な関心を持つていたいわゆる復元補償費については、米国側では一文も支出することができないと発表しているのに、日本側では米国側に支払わせる旨言明していて、著しい主張の矛盾があり、巷間日本政府が右支払の資金を肩代りする何らかのからくりがあるのではないかとの肩代り説が強く、政府の交渉態度に極めて不明朗なものがあつたため、西山記者は、その間の真実の姿を究明して、議会はもとより国民に論議の対象を提供するのが新聞記者としての使命であると考えていたのである。
西山記者はこの間の状況を原審第五回公判において
「これは、一つの経過があるんです。五月の中旬頃に、私が書いておりますけれども、とに角最優先課題にするという対米請求を、初め一二項目もあつたという。それが、いつの間にか全部なくなつてしまつた。非常に大きな交渉問題であつたそれが一二の内一一も撤回してしまつて、そして最後に残つたのが軍用地復元補償であると、で、その前にもう一つ人身損害補償というのがございまして、それが最後に二つ残つたんです。しかしいつの間にか、それも消えてしまつた。そして衡平の原則に照らして軍用地復元補償は過去に、ある年限より以前の段階において米側は支払つておりますから、これはいわゆる金の高だけじやなくて問題の性格から見てどうしても日本側はアメリカ側に払わせなければならない、これは交渉の最優先課題でした。ところが、私は、アメリカ側の方ではどうなんだといろいろ聞いて見ましたけれども、四月以来のずつと、いろいろ流れがございますけれども、やはリアメリカ側はあの請求については、返還にあたつては、一切支払わないというこの原則はまだかわつていないということがわかりましたし、同時に、しかしアメリカ側は支払う根拠は認めておること、しかし金は払いたくないということで、これは記事に書いております。五月一七、八日頃のに、そういう面でまつたくの矛盾対立関係の中で、はたして、その時の交渉の趨勢からみてやはりアメリカ側が圧倒的に強いわけですから、札をもつているわけですから、そういう面ではたしてこれがどういうふうに解決をされるのかということについて非常に疑問点、疑惑をいだいておつたんです。これがあの電信文を見て、ああわかつたと、これならば完全にアピアランスで、アメリカ側が支払うという形をとつているけれども、実質的には日本が財源を提供して、国内的にそういうふうにやつていくんだなとそういうふうに判断しておつたわけです」
と説明している。また、第一審第一五回公判において、
「これは、要するに対米請求一〇項目というようなものをだんだん捨てていきまして、最後に残つたのが人身損害と今さつき言いました軍用地だと、この人身損害というのはいつの間にか消えてしまつたのですけれどもね。あとでわかつたことなのですが、それで、私らの判断としては、アメリカ側の態度は解決済だと、非常に強いと。このように非公式取材を通じて、これはもう公知の事実になつていたわけです。その態度はですね。しかし日本側は最優先交渉項目にするということでございましてね。そのアメリカ側の態度と絶対的に矛盾するわけですね。それでこれは一体どういうことになるのかという非常な疑間をみんなが抱いておつたわけです。それで当時の新聞で大体わかると思いますけれども、これはやはり日本側が肩代りすることになるだろうと、要するに肩代りというのは、日本政府がアメリカに代わつて沖繩の現地の請求に応ずるというそういう意味の肩代りですね。そういうことになるだろうと。そういう見方の方が一般的には強かつたわけです」
と説明し、また検察官の質問に対し
「日本側が肩代わりするという見方のほうが強いにもかかわらず、これは、あの時に肩代わりかということで出ています」「肩代わりか、ということが私たちの観測でしたけれども、それに対してこれは、絶対に勝ち取るというような最優先議題にするというんですから、ここにやはり私は非常に矛盾を感じたわけです。」「ごまかしをやるという断定まではいきません。しかし、この実体というものはやはり究明してみたいということです。」
といつている。
また、大谷裁判官の「実際に一〇三四号の愛知・マイヤーの電信文を見たとき、その中に記載された事項は大体あなたの持つていた疑惑に沿つたような内容だつたのですか」「予想どおりだつたということですか」の問に対し、「そうです。」と答えている。
西山記者が、愛知・マイヤー会談関係の文書の入手方を蓮見事務官に依頼した目的は、沖繩交渉の問題点が縮られて来て、復元補償の問題だけになつて来ている段階で、実にその内容の軍用地復元補償請求権の肩代りに関する疑惑解明にあつた事は明らかであり、それが如何なるからくりによつて行われるかは事前に知る由もなく、そのからくりを断定するに至つていなかつたのは当然である。しかし乍ら、一〇三四号電信文案を見て、予想どおりであつたと言つていることは、事前の認識と客観的事実とが一致していることを雄弁に物語るものである。
かくの如く、事前の認識が、客観的事実にも合致している場合、その客観的事実が被害法益とするに当らない擬似秘密であつたり、保護してはならない違法秘密である場合、果して、実質秘であるとの認識ありということができるであろうか。これを肯定する論理は見当らない。
原判決は、右一〇三四号中の請求権に関する部分を擬似秘密とは断定せず、かつ、右電文案は他にも真正秘密を含む電信文案であるということを理由の一つとして、未必の故意を認めるに至つている。
しかし乍ら、原判決は右電信文案を読んだ西山記者が次の第八七七号電信文入手依頼に際して有した認識に関しては、「対米請求権の処理の問題についての被告人の旧(もと)の疑惑は、単なる疑惑の城を越え、確実な資料情報に基づき、そのからくりを擬似秘密であると信じたことについて、相当な理由があつたと客観的にも肯認される。」と料示しているのは、右一〇三四号電信文案記載の対米請求権の処理に関するからくりの部分を少くとも擬似秘密であると信ずるにつき相当な理由の根拠となる確実な資料であると認定していることは明らかである。また、原判決が右電信文案に含まれていたとする他の真正秘密に関する西山記者の入手依頼時の認識については、何らの証左もあげられていない。
従つて、原判決の見解そのものに従つても、未必の故意を認めることは困難であるといわねばならない。
しかも、右からくりの内容をなす密約は、さきに述べたとおり、単に保護する必要のない擬似秘密であるというに止まらず、保護してはならない違法秘密であり、かかる違法秘密を含む文書は仮に真正秘密の部分が含まれていても、その文書全体を刑罰を以つて保護すべきいわれのないことは、前記第二点において詳述したところである。
もとより、西山記者は、擬似秘密とか違法秘密とかいう言葉は全く知らない。しかし、違法秘密にあたる客観的事実である密約のからくりを予想し、これを追究すべく、取材活動を行うため愛知・マイヤー会談関係の文書の入手方を蓮見事務官に依頼し、予想どおり一〇三四号電信文案を入手したものであつて、かかる場合には、到底未必の故意と認定することはできない場合であるにもかかわらず、単に机上の法解釈論により、確実な資料等に照し相当の理由がなかつたとの一事を以て、未必の故意ありと認定し有罪の言渡しをした原判決は、法令の適用を誤まり、保護すべからざる違法秘密を刑罰を以て保護する誤りに陥つているものである。
以上述べたとおり、原判決が、西山記者の本件第一〇三四号電信文案の入手を依頼したことにつき未必の故意ありと認定した点は、法令の解釈適用を誤り、その誤りは判決に影響を及ぼしており、これを破棄しなければ、著しく正義に反するものと思料する。
以上